DFCとブログ・マーケティング

Direct From Consumer

猛暑来襲。暑い、熱い、あつい。

この暑さの中、DFC(Direct From Consumer)の開発に取り組んでいる。9月中にはアルファ版完成を予定。先週エントリで「ブログ・マーケティング」について考えてみたが、春先からDFCの仕様をあれこれ検討しているうちに、自然と当方なりのブログ・マーケティング観というものが次第に焦点を結びつつある。他のブログ・マーケティング関連サービスとはかなり違うものになるかも知れない。

これまで既に稼働しているブログ・マーケティング・サービスやツールを見ると、ウェブ上の流行現象の盛衰、伝播パターン、キャンペーン効果等をいかに時系列把握するかがテーマになっているケースがほとんだ。この点、医療においては消費財のようなファディッシュな流行現象というものは考えにくい。

だからDFCでは、時系列で複数ブランドの出現頻度をトレースするような必要はあまりない。また、関連ワードによって特定ブランドやプロダクトネームに対する好意度解析をするケースも多いが、DFCではこれもあまり重要ではないと考えている。医薬品、医療機器のプロダクトネームを「好き、嫌い」で評価してもあまり意味はないからだ。医療機関に対しては好悪評価の余地はありそうだが、これもよく考えるとさしたる意味を持つとは思えない。 続きを読む

医療評価、競争、進化

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昨日エントリでEHRなど医学情報と闘病体験ドキュメントの相互関係について考えたのだが、これは例の「EBMとNBM」みたいな話とは一切無関係である。エビデンスとナラティブを対置するような議論は、実は何ら生産的なものではなく、いわば「科学 対 人間」のように通俗的な、昔懐かしい対立図式を反復して見せているに過ぎないのだ。このような通俗性ゆえに、一見して、誰にもわかりやすい理屈に見えるのだ。しかしこれら通俗的論議は、今日の医療をどのように変えるのかという具体論を回避し、実践的課題から目をそらすためのレトリックに過ぎない。

患者体験ドキュメントに価値があるとすれば、それが「ナラティブ(物語)」であるからではなく、そこに実際に体験された「ファクト(事実)」があるからだ。「語り」という叙述の形式が問題なのではなく、どのような叙述形式であれ、それによって記録される内容(事実)のほうが価値を持つはずだ。そして事実は医療を可視化する。すなわち患者の目を通じて医療は可視化される。EHRなど医療情報システムによって記録された医学的事実と、患者の目を通じて自発的に記録された体験的事実。この「二つの事実」は、医療の実践者と被験者の双方の視点から観察された「事実」であり、実は医療のみならず、およそ「サービス」というものが避けがたく持つ二つの側面を示している。どのようなサービスも「提供者の事実」と「消費者の事実」という二面性を持っているのだ。 続きを読む

夏、EHR、そしてTOBYO

ShakujiiKoen_2010summer

先週、梅雨明け。三連休。墓参、読書、音楽。いきなりの酷暑。蝉、鳴き始める。いよいよ本格的な夏。

先週、7月13日、米国政府はEHR導入促進プログラム”HITEC Act”の「意義ある利用」ルールのファイナル・バージョンを公開した。同時にONC(The Office of the National Coordinator for Health Information Technology)のデビッド・ブルーメンソール局長は、同日付“The New England Journal of Medicine”にこのファイナル・バージョン要約と解説を発表している。昨年来、米国医療IT業界を震撼させたこの「意義ある利用」問題にも、やっと一応の決着がつけられたことになる。

一方、日本のこれまでの医療情報化議論というもの振り返ると、総じて「極めて低調であった」としか言いようがない。例によって何度も役所主導の「検討会」が編成されたはずだが、何一つ社会的コンセンサス形成を果たした形跡はない。おそらくアジェンダ設定に問題があったのだろう。

やはり先週、TOBYOの収録サイト数は2万2千サイトに達した。最近の闘病ユニバースだが、ウェブ上で闘病体験を公開しようというユーザーの意欲は今年に入ってますます高まっているような気がする。当初、その規模をおよそ三万サイトと推定した闘病ユニバースだが、その後、規模は膨張していると見て間違いないだろう。ブログで自分の闘病体験を社会的に公開することは広く定着してきている。またツイッターで体験を公開する闘病者も増えているが、これらをTOBYOプロジェクトでどう扱うかは今後の課題である。 続きを読む

「コマンド&コントロール」からブログ・マーケティングへ

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昨日のエントリは「手作りパンブーム」から書き始めたのだが、途中からあらぬ方向へ脱線してしまった。一応のアウトラインは準備していたが、それを無視するかたちで予期せぬ方向へと筆が進んでいった。ある意味でこういうハプニングは面白い。何事も万事が予定調和で進んでしまえば、アイデアや新しいビジョンが訪れることはない。ブログを書くということは単に自分の考えをまとめるだけの作業ではなく、書きながら考え、何か新しい視点を獲得する端緒をつかむような、そんな創造的活動なのかもしれない。

昨日書こうと考えていたのは、実はブログ・マーケティングのことだった。昨今の手作りパンブームに便乗する形で、家電各社はホームベーカリー機器に注力している。三洋電機はコメで安価にパン生地を作れるパン焼き器を、パナソニックはパリパリ感のあるパン皮が焼けるパン焼き器を最近発表している。いずれもブログを中心としたプロモーション活動を投入する予定らしい。

かつてはマスメディアやイベントで「ブーム」を仕掛け、ユーザーを巻き込むスタイルのマーケティング活動がフツウだったが、すでに前世紀の終り頃には、このような「コマンド&コントロール」型のマーケティング活動は期待される効果を生み出さなくなっていた。企業やメディアが新しいライフスタイルを提案し、消費者が唯々諾々とそれに付いて行くような時代は去り、消費者は企業やメディアを乗り越えてはるか遠くまで行ってしまったのである。 続きを読む

「ナラティブ」という「物語」を駁す

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「手作りパン」ブームらしい。そう言えば一般サイトのみならず、最近闘病サイトでも手作りパンの話題が多いのに気づく。自分で作ったおいしそうなパンの写真とレシピをアップする闘病サイトが増えているのだ。癌の患者であっても、難病の患者であっても、手作りパンを焼き、その自慢のパンの写真をブログにアップしている。誰かに見てもらうために。「どう?おいしそうでしょ!」。

とりたてて「闘病記」などというと、私たちは何か特別で鹿爪らしい、しかもどこか劇的で非日常的な展開のある「物語」を連想してしまいがちだ。だが、実際は闘病生活においても日常的な時間は淡々と流れている。そこにも手作りパンを焼くような趣味や娯楽の愉しみがあり、家族や友人との会話があり、要するに日常のフツウの生活と時間があるのだ。闘病生活を「闘病記」などという独特の視点で「物語」化したい人たちは、むしろそれら日常の視点が自らに欠落していることを知るべきだ。闘病生活は「戦時」ばかりではない。その多くは「平時」の時間なのだ。

これまで「従来の闘病記と闘病サイトとは質的に違う」ということを再三言ってきたわけだが、その違いの一つは、闘病サイトが闘病生活だけでなく日常生活全体を生き生きと描き出している点にある。もちろん闘病体験だけを焦点化したサイトも少なくないが、多くのサイトは趣味、旅行、娯楽、育児、教育など生活全体を描き出し、その中の一部として闘病体験が記録されている。これに対し、たいていの「闘病記」は紙幅制限のためもあってか、そのような生活全体の記録という体裁を取ることは稀であり、非日常的で劇的な「物語」の骨格を際だたせるような編集がされている。そしてそのことはスーザン・ソンタグが「隠喩としての病」で批判したように、病気を特別視し、過度に文学化(物語化、神話化)するような不健康な表象に繋がっていくのである。 続きを読む