「手作りパン」ブームらしい。そう言えば一般サイトのみならず、最近闘病サイトでも手作りパンの話題が多いのに気づく。自分で作ったおいしそうなパンの写真とレシピをアップする闘病サイトが増えているのだ。癌の患者であっても、難病の患者であっても、手作りパンを焼き、その自慢のパンの写真をブログにアップしている。誰かに見てもらうために。「どう?おいしそうでしょ!」。
とりたてて「闘病記」などというと、私たちは何か特別で鹿爪らしい、しかもどこか劇的で非日常的な展開のある「物語」を連想してしまいがちだ。だが、実際は闘病生活においても日常的な時間は淡々と流れている。そこにも手作りパンを焼くような趣味や娯楽の愉しみがあり、家族や友人との会話があり、要するに日常のフツウの生活と時間があるのだ。闘病生活を「闘病記」などという独特の視点で「物語」化したい人たちは、むしろそれら日常の視点が自らに欠落していることを知るべきだ。闘病生活は「戦時」ばかりではない。その多くは「平時」の時間なのだ。
これまで「従来の闘病記と闘病サイトとは質的に違う」ということを再三言ってきたわけだが、その違いの一つは、闘病サイトが闘病生活だけでなく日常生活全体を生き生きと描き出している点にある。もちろん闘病体験だけを焦点化したサイトも少なくないが、多くのサイトは趣味、旅行、娯楽、育児、教育など生活全体を描き出し、その中の一部として闘病体験が記録されている。これに対し、たいていの「闘病記」は紙幅制限のためもあってか、そのような生活全体の記録という体裁を取ることは稀であり、非日常的で劇的な「物語」の骨格を際だたせるような編集がされている。そしてそのことはスーザン・ソンタグが「隠喩としての病」で批判したように、病気を特別視し、過度に文学化(物語化、神話化)するような不健康な表象に繋がっていくのである。
ところで最近、医療に関連して「物語」とか「ナラティブ」とか「NBM」(Narrative Based Medicine)とか言われるのをたびたび目にする。NBMについては、たしかに前世紀末に英国のGPによって関連本が発表されているが(“Narrative Based Medicine”,Trisha Greenhalgh,BMJ Books )、その後、実際には海外でほとんど話題にさえなっていないのである。ためしにGoogleで「Narrative Based Medicine」を検索しても、上述書の関連情報をのぞけば、ほとんど日本語情報しかヒットしない。それが、なぜ日本ではわざわざ「最近、世界的に話題になっている・・・」などと大仰に語られるのだろうか。なぜ話題にもなっていないことを、「話題になっている」かのようにふれ回るのか。このような学者らしからぬ「センセーショナリズム」に首をひねらざるを得ないのだ。否、学者ゆえのセンセーショナリズムというべきかも知れぬ。
もしも仮にこれら「ナラティブ」に関する諸言説が、医学的エビデンスだけではなく、生活や価値観まで含めた「患者の全人格性」の重要性を説こうとするのであれば、1987年に米国ピッカー研究所、ハーバード・メディカルスクール、ベスイスラエル病院の三者共同研究に基づいて発表された「患者中心医療のためのピッカー・コモンウエルス・プログラム」および「患者中心医療の8次元」(「ペイシェンツ・アイズ」、マーガレット・ガータイス他、日経BP社)をまず参照すべきである。
患者と医師の間に”文化的不一致”が生じる原因は、患者は主観的な経験としての「病気(illness)」を問題にしているのに対し、医師は「疾患(disease)」に対して客観的にアプローチしようとするところにある。(同書21ページ、第二章「患者を個人として尊重する」-「病気と疾患」)
私たちのTOBYOプロジェクトもまた、ピッカー研究所が約20年前に提起した「患者体験」(Patients Experience)というコンセプトから出発している。ピッカーのあと、英国Dipexなどが出てくるのだが、これもおそらくなんらかのピッカー研究所の影響下に開始されたのだろう。ちなみに英国Dipexだが、実は彼らは「ナラティブ」「NBM」などということを主張してはいない。現実には彼らのウェブサイトやブローシュアのどこを見ても(コンテンツ案内を除いて)、これらの言葉は出てこないのだ。
そもそもDipexとは”Database of Individual Patient Experience”の略称であるから、本来「患者の個人体験データベース」という意味である。なぜこれが日本では「語りのデータベース」になったのか。どうやら日本の「ディペックス」は英国の本家と違い、「語り」、「ナラティブ」とか「NBM」などに過度の思い入れを持ち、なぜか好んで打ち出す傾向を持っているようだ。その理由は定かではない。だが当方にとっては、このような「動画サイト」が既に時代遅れになっているとは言え、まだ英国Dipexのほうがよりピッカーに近いだけに親近感はある。
すべてはピッカーから始まったのだから。
三宅 啓 INITIATIVE INC.