先週孫が生まれた。出産予定日は知らされていたものの、いざ出生の事実に面と向かってみると、そこにはある種「予想外の幸運に出くわした」みたいな感じがあった。無論、「歳を食ったなぁ」という感懐もある。そして、昨年末の母の死と合わせて考えると、この短期間に近しい人間の生と死の両端を体験することになったわけだ。
「人間の生と死」と言ったが、今ひとつのファクターとして「病」があるだろう。私達がTOBYOプロジェクトで採集している闘病ドキュメントとは、この「生、病、死」の記録に他ならない。その中でもプロジェクトでは「病」に焦点をあて、数百万ページのドキュメントから「病」に関する記述を抽出・集計・分析することを目指してきた。だが本来、「病」とは「生、死」との三点セットの相互関連として論じられるべきであり、それだけを単独であつかうことは不自然であるかもしれない。
また、この三点セットは往々にして「生、病」が前面に出され、「死」は後方へ退けられる傾向がある。特に「闘病」という言葉を使った場合、そこから強く喚起されるのは「生と病」である。「闘病」という言葉が、多分に積極的な行為を表すからだろう。対して「死」が積極的に焦点化されることはない。どうやら私達に共有された無意識には、「生、病」をポジティブに捉えたいという一種の強迫観念があり、逆に「死」を議論の余地のないネガティブ・ファクターとして無視したいという暗黙裡の合意があるような気がする。 続きを読む