「団塊」から遠く離れて

ShakujiiKoen_2010summer

たしか二三年前までは内田樹氏のブログを読んでいたはずなのだが、いつしかまったく読まなくなってしまった。何か団塊の世代の世迷い言を聞かされているような、また中高年のふてぶてしい居直り言を聞かされているような気がして、だんだん読むことが不愉快になったからだ。

なんとなくこの内田樹という人は、「団塊の世代」のある種の部分を代表し代弁しているような気がする。村上春樹も団塊の世代のひとりであるが、最近のインタビューでは「団塊の世代の世代責任」という言い方で、この世代の「革命戦士-企業戦士-バブル戦士-逃げきり年金生活者」という生き方の「責任」を問うことが多い。このような同世代批判のリスクは小さくないはずだが、それをあえて言ってしまうところはさすがだ。70年代当時、大学を卒業すれば企業に就職するか大学院に進学するか、学生にとって選択肢はこの二つしかなかった。村上氏はどちらも選択せず、ジャズ喫茶のマスターという職を選んだのだ。

昨日の内田氏のエントリ「日本の人事システムについて」が各方面で話題になっている。これに対しメディカル・インサイトの鈴木さんが「内田樹教授にモノ申す」で鋭い批判を展開しているが、激しく同意する。鈴木さんの内田批判に全面的に賛成だ。この内田氏エントリは典型的な「団塊の世代のマインドセット」を代弁するものであり、学生に対する就職時の「査定、審査」の理不尽さを指弾するように見せて、結局は古い「戦後民主主義」への自分たちの郷愁を吐露しているようなものである。しかも理不尽なもの、不合理なことは、もちろん就職試験だけではなく「仕事」の全ての局面に存在する。 続きを読む

夏なんです

ShakujiiKoen_Summer2

いささか夏ばて気味。世間はリゾート気分一色。ブログ更新も滞りがち。夏なんです。

週末、ヘミングウェイ「移動祝祭日」(高見浩訳、新潮文庫)、「愛と憎しみの新宿」(平井玄、ちくま新書)を読む。「移動祝祭日」はヘミングウェイの実質上の遺作であるが予想外の収穫だった。1920年代のパリ。文学、都市生活、レストラン、カフェ、酒、競馬、釣り、そして様々な人間模様。簡潔な筆致。深く鋭い洞察。書くことは生きることであるように、読むことは生きることである。そのことを堪能できる作品である。「愛と憎しみの新宿」は、新宿の「あの時代」の記憶を呼び起こすものだ。だが読み進む内に、これらどこにも焦点を結ばない記憶の羅列に苛立ちを感じはじめた。そして先週読んだクリステヴァの次の一節を思い起こした。

ニーチェはすでに、「つねに重くなってゆく過去の重さによりかかった」「人間動物」を告発していた。この人間動物---すべてを忘れるがゆえに苦しむことのない動物の正反対のものとして---は、逆に「忘却を学ぶことができず、つねに過去のとらわれ人となっていること」で苦しみ疲れ果てている。恨みと復讐の念を増大させる記憶の反芻に対して、ニーチェはまさに「忘却力」を、「抑制力、とくにポジティブな能力」を強く推す。(「ハンナ・アーレント」ジュリア・クリステヴァ、作品社、第三章-5「判断」P305)

この言葉は、何かを思い出し記憶を再現することよりも、「忘却するチカラ」の方が重要であると教えてくれている。「新しいものに場所をゆずるために、私たちの意識を白紙状態(タブラ・ラサ)にする」。確かに何か新しいことを始めるためには、まず以前の記憶を積極的に忘れ去ることが必要なのだ。 続きを読む

熱い夏

ShakujiiKoen_Summer

先週から体調を崩し、週末は完全休養にあてた。8月に入って暑さは相変わらずだが、昨日は午前中、雷と共にかなり激しい雨が降りなんとなく涼しかったが、今日は朝から暑い。

昨日からクリステヴァの「ハンナ・アーレント」(ジュリア・クリステヴァ、松葉祥一他訳、作品社)を読む。実は私たちが起業する際、ハンナ・アーレントのある著作から社名のヒントをもらったこともあり、以来、ずっと関心をはらってきた思想家である。この本はメラニー・クライン、コレットと合わせた三部作のうちの一作であるが、クリステヴァの執拗にして明晰な探求には舌を巻く。しかし、クリステヴァの原作読解が容易ならざるものだろうことは推測できるのだが、それにしても翻訳文がひどすぎるのではないか。機械的な直訳に辟易した。 続きを読む

暑中御礼

Suiren

この暑い中、当方までわざわざご来訪いただいた方々に感謝。一昨日は立教大学の三浦さん、今日は神戸大学の小川先生、ケットさん、それに電通の藤野さん。みなさんありがとうございました。そしてお疲れ様でした。

当方のような弱小ベンチャーが、果たして何かお役に立つお話ができたかどうか不安だが、持ち前の強固な思い入れと過剰なファイティング・スピリッツに火がつき、止まらぬ饒舌、枯れる声も裏返り、時間度外視のインタビューとなってしまった。

まずビジネススタイルに関して、当方ビジネスとNPOなどの事業スタイルについて異口同音に質問をいただいたが、当方の現在の立ち位置ははっきりしている。ベンチャーであれNPOであれ、とにかくイノベーションを実際に起こし、新しい価値を創らなければ何の意味もない。そこを「善意」とか「美しい話」でごまかしてはならない。真に社会に役立つということは、必死になって、命がけで「イノベーションと新しい価値」を創出することだ。善意で凡庸なる仕組みをごまかすことはできない。

私たちのDFCは、まさに「イノベーションと新しい価値」を具現化するためのチャレンジである。これをやるためにこれまでの数年間があったのだし、これをやるために起業したのだ。 続きを読む

仮想コミュニティのポータル

Universe

今週はいくつかインタビューの予定が入った。TOBYOに関心を持っていただいて感謝感激である。ところで事前の質問リストを見ていると、やはり「どうしてTOBYOは闘病記を書く機能やコミュニティ機能がないのか」という質問があった。これはこれまで一番多く当方に発せられた質問であるが、おそらく今後も事あるごとに問われるのだろう。

何度でも繰り返す必要があるのだろうが、私たちがTOBYOプロジェクトを企画する段階で、ネット上には約3万サイトと推定される闘病ドキュメントサイトが既に存在していた。端的に言って、一から闘病体験をTOBYOサイトで書いてもらうよりも、既に存在する闘病サイトを可視化しリスト化する方が早く、しかも確実なのだ。TOBYOが闘病体験を書く機能を持たないのは、そのように判断したからだ。

次にコミュニティ機能だが、ネット上に分散して存在する闘病サイト群は、相互リンク、コメント、トラックバックなどを通じて緩い自然発生的なネットワークを作っていた。これを私たちは一種の仮想コミュニティとみなし「闘病ユニバース」と名付けたわけだ。つまりコミュニティ機能もまた、私たちがTOBYOサイトで一から作り込むまでもなく、すでにネット上に存在していたのだ。 続きを読む