いささか夏ばて気味。世間はリゾート気分一色。ブログ更新も滞りがち。夏なんです。
週末、ヘミングウェイ「移動祝祭日」(高見浩訳、新潮文庫)、「愛と憎しみの新宿」(平井玄、ちくま新書)を読む。「移動祝祭日」はヘミングウェイの実質上の遺作であるが予想外の収穫だった。1920年代のパリ。文学、都市生活、レストラン、カフェ、酒、競馬、釣り、そして様々な人間模様。簡潔な筆致。深く鋭い洞察。書くことは生きることであるように、読むことは生きることである。そのことを堪能できる作品である。「愛と憎しみの新宿」は、新宿の「あの時代」の記憶を呼び起こすものだ。だが読み進む内に、これらどこにも焦点を結ばない記憶の羅列に苛立ちを感じはじめた。そして先週読んだクリステヴァの次の一節を思い起こした。
ニーチェはすでに、「つねに重くなってゆく過去の重さによりかかった」「人間動物」を告発していた。この人間動物---すべてを忘れるがゆえに苦しむことのない動物の正反対のものとして---は、逆に「忘却を学ぶことができず、つねに過去のとらわれ人となっていること」で苦しみ疲れ果てている。恨みと復讐の念を増大させる記憶の反芻に対して、ニーチェはまさに「忘却力」を、「抑制力、とくにポジティブな能力」を強く推す。(「ハンナ・アーレント」ジュリア・クリステヴァ、作品社、第三章-5「判断」P305)
この言葉は、何かを思い出し記憶を再現することよりも、「忘却するチカラ」の方が重要であると教えてくれている。「新しいものに場所をゆずるために、私たちの意識を白紙状態(タブラ・ラサ)にする」。確かに何か新しいことを始めるためには、まず以前の記憶を積極的に忘れ去ることが必要なのだ。
ところで先週、TOBYO収録サイトは2万2500件を越えた。これで3万サイト(推定)の闘病ユニバースの四分の三を可視化したことになる。ここまで来たら、とにかく3万サイトまで行くしかない。これまでこのブログで、闘病ユニバースと名付けた「仮想コミュニティ」論を少しづつ展開してきたのだが、これは患者コミュニティの困難性を認識することのいわば反作用であったかも知れない。
TOBYOプロジェクトの構想段階では、もちろん自前のコミュニティを持つ可能性も捨ててはいなかった。しかし、結局、ゼロから自前コミュニティを作り上げるよりも、すでに存在する仮想コミュニティを可視化する方を選ぶことになった。今にして思うと、この時点では、まだ「患者コミュニティの困難性」という問題ははっきり認識できていなかった。
だが、やがて米国における一連の患者コミュニティの行き詰まりと頓挫が伝えられ、逆にまったく異質なコミュニティをめざしたPatientsLikeMeの成功が明らかになった。この過程でようやく、同じコミュニティと言っても、患者や病気を対象とするものと趣味や交際を目的とするものを同列に置くことはできないと言う、きわめて常識的な前提が「忘却」されていたことが想起されたのだ。
そもそも患者や病気や闘病というテーマは、趣味やレシピや社交などとはまったく違う。これは誰にでもわかることだ。ではこんなシンプルなことを、なぜ「忘却」してしまっていたのだろうか。そしてこの「違い」というものをどのように捉えたらよいのだろうか。これらの問題が、この間、ずっと頭を離れなかった。それでもその手がかりはある。とりあえずPatientsLikeMeの成功要因の中にその答えはあるはずだ。そしてさらに「患者」という存在形態を徹底的に分析してみることも必要だと思われる。これは、クリステヴァのハンナ・アーレント論を読み継ぐ中で、漠然とながら頭をもたげてきた当方の問題意識である。これから少しづつ掘り下げていきたい。
まだまだ酷暑は続く。夏ばて気味だが、TOBYOプロジェクトとDFC開発を進めながら、本を読み、考え、書くことを続けていく。
三宅 啓 INITIATIVE INC.