英国Dipexサイト「healthtalkonline」

ご報告が遅れたが、5月8日付け毎日新聞「関心高まる闘病記:下 先輩患者の知恵、ネットに」にTOBYOが紹介された。実はこのブログで紹介するかどうか、少し迷った。というのは、また例によって「Dipex Japan」という団体の紹介がメインで、記事の半分強を占め、TOBYOやライフパレットは「刺身のつま」みたいな扱いでお茶を濁されていたからだ。まだ実際に何のサービスも開始していないにもかかわらず、なぜだか毎日新聞はじめマスメディアはこの団体にご執心である。

だが、以前から疑問だったのは、オックスフォード大学から始まったとされるこのDipexが、Health2.0など海外の新しい医療シーンでは、まったく話題にも上がっていない点だ。私は2005年くらいから、海外の新しい医療ITの動向をウォッチしてきたつもりだが、この「Dipex」関連のトピックスやニュースに触れたことは一度もなかったのである。だが、当方の見落としということも当然あるだろう。というわけで「Dipex」の本家本元の英国サイト「healthtalkonline.org」を調べてみた。 続きを読む

People Get Ready


昨日、仕事を早く片付け、中野サンプラザへ山下達郎コンサートを聴きに行った。ファンクラブのメンバーである妻の知人が、私が古くからの達郎ファンであることを知って、昨年暮れから始まった全国ツアーの掉尾を飾るこの日のチケットを入手してくれたのである。これまでシュガーベイブ時代から、達郎氏の作品は発表のたびに全部入手してきたが、コンサートと言えば1976年のシュガーベイブ解散コンサート以来であり、なんと33年ぶりのライブ体験なのである。

ニューヨークのストリートコーナーを模した舞台オブジェをバックに登場した達郎氏。全国ツアーでしっかり歌い込んだ声は絶好調で、かつて、学生時代に聞いて驚嘆した、あの大きく張りのある声を再び生で聴くことができた。夕刻6時半に開演したコンサートは、終わったのがなんと10時半。ライブパフォーマーとしての力は衰えず、まったく時間の長さを感じさせなかった。あっと言う間にフィナーレになだれ込み、シュガーベイブ時代の「ダウンタウン」が演奏されたが、聞きながら、なんだか複雑な思いが去来するのを感じた。そう言えば33年前、荻窪ロフトの解散コンサートのラストで、この曲のイントロと同時に「これで最後だ!」と叫んだ達郎氏の声が今も耳に残っている。その同じ楽曲が33年の時間を越えて、目の前でライブ演奏される場に立ち会う自分。まるでこの33年間という時間が、まったく存在しなかったような錯覚に襲われた。 続きを読む

ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)

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最近、新聞を開くと「無趣味のすすめ」という本の広告をよく目にする。村上龍氏のエッセーをまとめたもので、そこそこ売れているようだ。広告には、その本から以下の文章が引用されており目を惹く。

現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。

二三年前、ある雑誌に掲載されたこの文章に接し、妙に感心したことがあった。だが、改めて広告でこの文章を今読むと、「そーかなぁ?」と素直に納得できない自分がいることに気がつく。そして同時に、歴史家ホイジンガの「ホモルーデンス」のことを思い出したのである。「ホモ・ルーデンス」とは「遊ぶ人」のことである。村上龍氏が「趣味」と対比的に取り出した「仕事する人」だけが人間のすべてではないだろう。人間は「仕事」をしてきたし、そこには村上氏が言うように「真の達成感や充実感」があっただろうが、一方で人間は「遊ぶ人」であり、無心に遊び続けてきたのだ。 続きを読む

「闘病記」を越えて(3): 事実とレトリック

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数年前、起業して真っ先に私たちが取り組んだテーマは「医療評価」であった。医療機関を患者視点で評価し、レーティングデータをインターネットで公開しようと考えていたのだ。その患者視点評価の理論的フレームを固めようと、米国ピッカー研究所の患者体験調査手法に学び、従来の「患者満足度調査」にかわる新しい調査システムを開発する予定であった。「満足度」が主観的な指標であるのに対し、「体験」は「事実」の客観指標である。このときから「医療を患者体験(事実)で評価する」という方向性を私たちは目指したといえるだろう。

だが今にして思えば、あらためて新しい調査システムを開発して把握するまでもなく、患者体験は、患者自身の手によってウェブ上に多数公開され始めたのである。闘病サイト、およびそれによって形成された闘病ユニバースである。「患者は、医療機関で何を実際に体験したのか」について、評価調査をわざわざ実施するまでもなく、これら闘病サイトで公開された膨大な体験ドキュメント(闘病記)が、医療現場で実際に体験された「事実」を最も雄弁に語っているのである。つまりリサーチャーの目から見ると、これら体験ドキュメント(闘病記)は、医療評価データの「宝の山」なのである。 続きを読む

「闘病記」を越えて(2): 「分解-再編-総合」

「リアル闘病本」としてパッケージ化された「闘病記」と、現在ウェブ上に多数活動中の闘病サイトは、一見似ているようでまるで別モノである。その「違い」にこだわろうとするのか、それともその「違い」を無視しようとするのか。当然、どちらを取るかによって、闘病体験に関わるサービスの方向性はまるで違ったものになる。それを極論すれば、その違いを無視し、あえて従来の「闘病記」の延長線上で発想しようとするなら、何もウェブを使ってサービスを開発する必要はないはずだ。従来の出版サービスや図書館のようなもので十分だ。

つまり、リアルのアナロジーとして闘病サイトを見ている限り、基本的にどのような新しいユーザー価値も作ることはできない。同様にこのことは、患者体験のビデオパッケージにも言える。従来のビデオパッケージを単にウェブサイトで配信するだけなら、それは古くて懐かしい「オンデマンドVRS」と変わるところはない。だがこれは、今日のYouTubeなどとはまったく別モノと考えなければならないだろう。コミュニティについても同様である。従来のリアル「患者会」のようなものをウェブ上にあえて作る必要はないし、むしろ「患者会」の延長線上にウェブコミュニティを考えてはならないのだ。要するに「リアルをウェブ上に再現する」という誘惑を断固として退けなければ、どのような新しい医療サービスも作ることはできないのだ。 続きを読む