「闘病記」を越えて(2): 「分解-再編-総合」

「リアル闘病本」としてパッケージ化された「闘病記」と、現在ウェブ上に多数活動中の闘病サイトは、一見似ているようでまるで別モノである。その「違い」にこだわろうとするのか、それともその「違い」を無視しようとするのか。当然、どちらを取るかによって、闘病体験に関わるサービスの方向性はまるで違ったものになる。それを極論すれば、その違いを無視し、あえて従来の「闘病記」の延長線上で発想しようとするなら、何もウェブを使ってサービスを開発する必要はないはずだ。従来の出版サービスや図書館のようなもので十分だ。

つまり、リアルのアナロジーとして闘病サイトを見ている限り、基本的にどのような新しいユーザー価値も作ることはできない。同様にこのことは、患者体験のビデオパッケージにも言える。従来のビデオパッケージを単にウェブサイトで配信するだけなら、それは古くて懐かしい「オンデマンドVRS」と変わるところはない。だがこれは、今日のYouTubeなどとはまったく別モノと考えなければならないだろう。コミュニティについても同様である。従来のリアル「患者会」のようなものをウェブ上にあえて作る必要はないし、むしろ「患者会」の延長線上にウェブコミュニティを考えてはならないのだ。要するに「リアルをウェブ上に再現する」という誘惑を断固として退けなければ、どのような新しい医療サービスも作ることはできないのだ。

こう考えてくると、従来の「闘病記」との連続性においてではなく、むしろそれとの切断を意識するところからしか、新しい闘病体験を軸とするサービスの開発を始めることはできない。闘病体験を「作品」というパッケージに閉じこめることなく、それらをオープンな知識ストック(集合知)として利用し、さらにフローさせるためには、どうしても従来の「闘病記」という括りを越えて行かねばならない。

たとえば闘病体験のバーティカル検索エンジンは、「闘病記」という括りを外して横断的な全文検索を可能にする。それはあたかも堅固に装丁された「闘病本」を分解し、ユーザーの意図の元に新たに再編するような情報ツールである。ある一つの抗がん剤の製品名によって、闘病体験の集合知から、複数の体験に横串を通して取り出し検討することも可能となる。これはリアル闘病本では不可能なことだった。

だが、このような情報の「分解と再編」が行き過ぎると、一方ではその情報の信頼性を危うくする恐れが出てくる。情報の信頼性は、その情報が特定コンテクストの中にあることで担保されているのだが、その前後関係が失われてしまえば、最早その信頼性を判断する手がかりはない。だがその際、体験情報のソースである闘病サイトの果たす役割が重要になってくる。個々の情報の信頼性は、そのソースである闘病サイトが担保することになるだろう。その闘病サイトが有するタイトル、カテゴリー、情報量、文体、デザイン、サイト構造、リンクリスト、コメント、ウィジェットなどすべてが、個々の情報の信頼性をユーザーが総合的に判断する手掛かりとなる。

このような闘病体験の「分解-再編-総合」というダイナミックな一連のプロセスを、どのように便利にするか、魅力的にするかが、新しいサービス開発に求められていることだと思うのだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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