「闘病記」を越えて(3): 事実とレトリック

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数年前、起業して真っ先に私たちが取り組んだテーマは「医療評価」であった。医療機関を患者視点で評価し、レーティングデータをインターネットで公開しようと考えていたのだ。その患者視点評価の理論的フレームを固めようと、米国ピッカー研究所の患者体験調査手法に学び、従来の「患者満足度調査」にかわる新しい調査システムを開発する予定であった。「満足度」が主観的な指標であるのに対し、「体験」は「事実」の客観指標である。このときから「医療を患者体験(事実)で評価する」という方向性を私たちは目指したといえるだろう。

だが今にして思えば、あらためて新しい調査システムを開発して把握するまでもなく、患者体験は、患者自身の手によってウェブ上に多数公開され始めたのである。闘病サイト、およびそれによって形成された闘病ユニバースである。「患者は、医療機関で何を実際に体験したのか」について、評価調査をわざわざ実施するまでもなく、これら闘病サイトで公開された膨大な体験ドキュメント(闘病記)が、医療現場で実際に体験された「事実」を最も雄弁に語っているのである。つまりリサーチャーの目から見ると、これら体験ドキュメント(闘病記)は、医療評価データの「宝の山」なのである。

またこれら体験ドキュメントは、プロのモデレータのインタビューによって誘導されるような作為的コントロールの産物ではなく、闘病者が自発的に自分の言葉で書き起こしたものであるだけに、闘病者の意識をダイレクトに描き出している。だから、日本の医療の現状を知りたければ、これら闘病ユニバースにある体験ドキュメントを精査すれば良い。他のどのような統計資料にあたるよりも、闘病体験を通じて、医療現場で生起している「事実」を克明に把握できるだろう。

リサーチャーや研究者にとって、このように闘病ユニバースの闘病体験集合は非常に資料価値が高いはずだが、残念ながらここに着目している者はほとんどいない。彼らは、リアル闘病本のような「闘病記」しか眼中にないのである。研究者たちよりも、やはり闘病者達自身が、いち早くその情報価値に気づいたのである。そして体験とそこから得られた知識を、次から次へとリレーするかのように、連鎖的な情報共有が始まったのである

こんなふうに見てくると、「事実」こそが闘病ドキュメントのキモであると言えるのではないか。「体験」とは「事実についての体験」である。そして「事実」とは「固有名詞で特定できる事実」のことである。一般化され、確率論で抽象化された「医学理論」ではなく、固有名詞を削除されたストーリーでもなく、闘病者はあくまでも「事実」を求めている。その「事実」は、これまで「孤立した個々人の体験」の中に閉じられ、せいぜい「クチコミ」で限定的にフローするだけであったが、ウェブによって、全国の闘病者が体験した「事実」全部を共有できるようになったのである。

「闘病記」という呼称に違和感があるのは、この呼称が「事実」を焦点化することなく、むしろ「物語」や「ストーリー」、あるいは「感動」や「勇気をもらう」など、古めかしい情緒論のシッポを否応なく残しているからだ。そして、これら「古いシッポ」の正体を考察してみると、結局これらは、健康者向けに闘病体験を商品化するためのレトリックに過ぎない。

三宅 啓


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