「闘病記」を越えて(1)

このブログでウェブ上の闘病記のことをあれこれ考察しているうちに、皮肉なことだが「闘病記」という呼称自体に対する当方の違和感は、だんだん大きくなってきている。だが、「闘病記」に代わる適切な呼称とて見つからず、他者にわかりやすく説明する必要もあって、依然としてこの呼称を用いなければならないのが実はもどかしい。

当方のその違和感を探ってみると、「リアル本の闘病記がまずあり、ウェブ闘病記はその代替物みたいなもの」などとリアル本の優越を主張するような、そんな従来の「研究者」たちの言説に対する反発みたいなところにたどり着くと思われる。昨年、「闘病記研究会」なるものに異論をぶつけたのも、実はそのような「反発」があってのことだった。

これら「リアル闘病記のアナロジーとしての闘病サイト」という古い観念を批判し、ぶち破り、闘病者たちのアクティブなウェブ上の活動とその実践的な可能性に着目すること。このことを常に考え続けてきたのだが、最近、徐々に視界は開けてきたような気もする。

まず、「リアル闘病記」から想起される「静的なパッケージ」観を捨て去ることが必要だろう。闘病ユニバースを自発的に構築してきた闘病者にとって、各人の闘病サイトは動的な「活動の場」であって、決して「作品」として自己完結した「パッケージ」ではない。なぜなら、すべての闘病者にとって最も優先されることは「病気を治す」ことであり、闘病サイトにおける情報活動も、すべてこの目的のために行われているからだ。「闘病記」と呼ばれるものは、この活動の結果として生まれるドキュメントであるが、その「作品性」は、当事者の「病気治癒」という目的に対してあくまでも二義的なものにすぎない。むしろそれは健康者である研究者やオーディエンスなど外部観察者が、事後的に「発見」したり、鑑賞するような「作品性」であるといえる。

では、「病気治癒」という闘病者の基本ニーズに立脚するのか、それとも「静的パッケージとしての闘病記」に立脚するのか。言い換えれば「病気治癒という問題解決」を焦点化するのか、それとも「完結したパッケージの作品性」を焦点化するのか。もともと「闘病記」に対しては、このような二つの立場があると思われる。どちらを取るかは自由だが、TOBYOプロジェクトは前者を取るだろう。

本来は、最初に「この病気を治したい」という闘病者の根本ニーズがあり、それに基づいて闘病記などのドキュメントが生み出されたのだが、このことはどこかで忘れ去られ、いつしか「闘病記」だけが単独で取り扱われるようになった。「闘病記」という括り方に対する当方の違和感は、そのような事情から来るのだろうか。

先日エントリでも取り上げたように、PatientsLikeMeなどは「問題解決型コミュニティ」という方向をしっかり持っている。TOBYOプロジェクトも、この「問題解決」という実践的な方向へ進んで行きたい。

三宅 啓


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