日本語圏ウェブと医療情報

ウェブ上にばらまかれた様々な医療関連情報あるいはデータを、どのように構造化するか。ウェブの医療情報サービスを考える場合、とどのつまりはこの問にどう答えるかが問題となる。もちろん多様な考え方に基づく多様な答えがあり、私たちのTOBYOプロジェクトもその中の一つにすぎない。Health2.0の苦闘は、この問に対する答えとそれを継続可能にするビジネスモデルのマッチングの難しさにある。

だが、もう一度この問いを見なおしてみると、見落としてはならないひとつの前提があることに気づく。それは構造化すべき医療関連情報あるいはデータが、「すでに」ウェブ上に存在するという前提である。「これから作る」のではなく、「すでにある」ということ。しかもそれらが「大量にある」からこそ、構造化が問題になるのだ。逆に「これから作る」のでは構造化は現下の問題ではなくなり、提供されるサービスも将来の問題に先送りされる。つまりこのように考える限り、サービスとビジネスモデルのマッチングは永遠に来ないかも知れないということを、この問いとそこに含まれる前提は仄めかしている。 続きを読む

8月の終わりに

DFC_top

今日で8月が終わる。例年この時期になると、夏が終る兆しをあちこちに目にして、じわっと「逝く夏を惜しむ」気分が漂いはじめる。しかし今年は、夏が終わる気配が微塵もない。炎暑は続き、熱風が吹き、蝉は鳴き、あたかも「Endless Summer」が現実のものとなるかのようだ。

年初から取り組んできたDFCだが、今月、サイト・デザインが完成しデータベース設計が始まった。まずまず順調に開発は進んでいると言えるだろう。10月末には、実際にデモンストレーションやユーザー試用が可能となるはずだが、この時分にはもう夏は去っているだろう。とにかく今までまったく存在していなかった新しいシステムなので、どのように受容されるか不安はあるが、医療分野に一つのイノベーションをもたらす可能性をはらんだ開発に取り組むことは、私たちにとって大きな誇りである。やはりベンチャーである限りは、なんらかのイノベーションを目指し挑戦しなければ、との思いは強い。 続きを読む

Health2.0 Tokyo Chapter 2

RoppongiHills

昨日、六本木アカデミーヒルズのスカイスタジオで第二回Health2.0 Tokyo Chapterが開催された。開催告知が盆休みと重なり、人の集まり具合が懸念されたが、会場はほぼ満員状態。Health2.0に対する関心の広がりを再認識した。

まずSMSの鈴木さんから、6月ワシントンDCで開催されたHealth2.0コンファランスの報告があり、canAvert、Everday HEALTH、Vitalityなどが紹介された。続いて当方からTOBYOと開発中のDFCのプレゼンテーションをおこなった。この間、プレゼンを準備する過程で実はいくつかの「気づき」があった。まず、これまで「仮想コミュニティ=闘病ユニバース」という考え方をこのブログで書いてきたが、むしろ当方はネット全体を一つのコミュニティとして見ているのだということに気づいたのだ。ただ、今回のプレゼンではこの新しい考え方を展開することはやめた。もう少し時間をかけて検討してみたい。 続きを読む

真夏のHealth2.0

Health2.0_Tokyo_Chapter

今年の夏の暑さは格別だが、炎暑の中、当方のDFC開発は進んでいる。言うまでもなく、TOBYOプロジェクト全体の収益エンジンとしてDFCは非常に重要な位置を占める。そうであるに違いないが、もう一方では、やはりもう少し幅を持たせた多様な事業展開ということも考えていかねばならないと思ったりする。だがベンチャー企業としては、限られたリソースをなるべく集中するしかない。そんなことを考えているうちに、いくつか新たなアイデアが「こんにちは!」とやって来る。

こんな状態を少し整理してみようと考えているところへ、来週、第二回Health2.0 Tokyo Chapterが開催されることになった。折よくTOBYO紹介の機会を頂戴したので、TOBYOプロジェクトとDFCの現時点での概要を整理要約してみたい。また、パネルディスカッション「今後の日本でのHealth 2.0について」のパネラーも拝命したので、少し立ち止まって、この間このブログで延々書いてきたことの中間的なまとめをしてみたい。 続きを読む

夏なんです

ShakujiiKoen_Summer2

いささか夏ばて気味。世間はリゾート気分一色。ブログ更新も滞りがち。夏なんです。

週末、ヘミングウェイ「移動祝祭日」(高見浩訳、新潮文庫)、「愛と憎しみの新宿」(平井玄、ちくま新書)を読む。「移動祝祭日」はヘミングウェイの実質上の遺作であるが予想外の収穫だった。1920年代のパリ。文学、都市生活、レストラン、カフェ、酒、競馬、釣り、そして様々な人間模様。簡潔な筆致。深く鋭い洞察。書くことは生きることであるように、読むことは生きることである。そのことを堪能できる作品である。「愛と憎しみの新宿」は、新宿の「あの時代」の記憶を呼び起こすものだ。だが読み進む内に、これらどこにも焦点を結ばない記憶の羅列に苛立ちを感じはじめた。そして先週読んだクリステヴァの次の一節を思い起こした。

ニーチェはすでに、「つねに重くなってゆく過去の重さによりかかった」「人間動物」を告発していた。この人間動物---すべてを忘れるがゆえに苦しむことのない動物の正反対のものとして---は、逆に「忘却を学ぶことができず、つねに過去のとらわれ人となっていること」で苦しみ疲れ果てている。恨みと復讐の念を増大させる記憶の反芻に対して、ニーチェはまさに「忘却力」を、「抑制力、とくにポジティブな能力」を強く推す。(「ハンナ・アーレント」ジュリア・クリステヴァ、作品社、第三章-5「判断」P305)

この言葉は、何かを思い出し記憶を再現することよりも、「忘却するチカラ」の方が重要であると教えてくれている。「新しいものに場所をゆずるために、私たちの意識を白紙状態(タブラ・ラサ)にする」。確かに何か新しいことを始めるためには、まず以前の記憶を積極的に忘れ去ることが必要なのだ。 続きを読む