病院とソーシャルメディア

海外では、ブログ、Twitter、SNSなどソーシャルメディアを活用する医療機関が増えてきている。その動向を知る上で恰好のスライドが公開された。スライド制作者はメリーランド大学メディカルシステムのウェブ戦略ディレクターを務めるエド・ベネット氏。ソーシャルメディアを病院のコミュニケーション活動に活用するためのガイドとして役に立つ。

ところで、日本でこのような活動例をまったく耳にしないのが奇異に思えるのだが、伝統的に日本の病院は社会とのコミュニケーションを等閑視してきたと言えるだろう。海外では、たとえばメイヨークリニックなどは「医療通信社」と言えるほどの規模のコミュニケーション事業を擁しており、マスメディアや社会に向けてニュースやコンテンツ配信を積極的に行っているが、日本ではこのような事例は皆無である。「ソーシャルメディアの活用」云々を言う前に、いまだコミュニケーション活動に対する基本認識の形成段階にあるのが日本の医療の現状と言うべきかもしれない。

三宅 啓  INITIATIVE INC.

「闘病記」を越えて(5): ネット的なるもの

従来の「闘病記」という狭い閉じられた静的枠組みによってではなく、もっと開かれた動的な視点からネット上の闘病ドキュメントを見ていくことが必要だ。ここに二つの視線があると思う。ひとつはリアル闘病本を起点として、ネット上の闘病ドキュメントの方へ向けられた視線であり、もう一方はネット上の闘病ドキュメントから出発して、リアルの医療現場へ向いた視線である。前者はリアル闘病本およびリアル医療現場などを、ある意味で規範化し、「かくあるべし」という硬直した観点からネット上の闘病ドキュメント周辺を見ているはずだ。このような「視線」からこぼれ落ちてしまうのは、ネット上の闘病ドキュメントが持つ豊かな可能性である。リアル闘病本の研究者達が、ネット上の闘病ドキュメントを正当に評価できないのも、彼らがこの視線から離れることができないからだ。

一方、もう一つの視線は何を語っているのか。もう一つのネット上の闘病ドキュメント発の視線は、リアル闘病本だけではなく、リアル医療全体に向けられている。そして、この「視線」は「かくあるべし」という規範化された医療観ではなく、「こうあってほしい」もしくは「こんなことも可能だ」というように、複数の代替的医療像を提起しているはずなのだ。つまり、現実の医療を唯一絶対のものとして規範化するのではなく、むしろ闘病者視点で相対化し、新しい医療の在り方の可能性を暗黙的に指し示していると言える。おそらく医療改革とは、これらの多声的で暗黙的な言葉に耳を傾けるところから始められるべきなのだろう。 続きを読む

「闘病記」を越えて(4): データベース「患者の叡智」へ向けて

 wikinomics

本日で、TOBYO収録闘病サイトは710疾患、15000サイトを越えた。これまで闘病ユニバースの規模をおよそ3万サイトと推定してきたが、これでTOBYOはその半数近くを可視化し、分類整理したことになる。だがまだあと半数を残しており、さらに今後多くの新闘病サイトが出現するだろう。こんなところで満足しているわけにはいかない。以前のエントリで現時点におけるTOBYOのプロジェクトミッションを、次のように述べてある。

闘病ユニバースに存在するすべての闘病体験を可視化し、分類整理し、アクセスできるようにすること。

このミッションを遂行するために、今後もサイト収集を進めていくが、来年には「収録サイト数3万件」に到達する予定だ。これで日本の近代医療はじまって以来初の、そしておそらく世界でも初の「患者3万人規模、分類整理され全文検索可能な闘病体験集合」が姿を現すことになる。これを仮に「データベース『患者の叡智』」と呼んでおく。このデータベースは、まず第一に闘病者のために利用してもらいたいが、その他、医療改革、学術研究、製品開発、政策立案、教育、マーケティングなど、およそ医療に関するすべての社会的ニーズに応えられる可能性を持っている。 続きを読む

「闘病記」を越えて(3): 事実とレトリック

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数年前、起業して真っ先に私たちが取り組んだテーマは「医療評価」であった。医療機関を患者視点で評価し、レーティングデータをインターネットで公開しようと考えていたのだ。その患者視点評価の理論的フレームを固めようと、米国ピッカー研究所の患者体験調査手法に学び、従来の「患者満足度調査」にかわる新しい調査システムを開発する予定であった。「満足度」が主観的な指標であるのに対し、「体験」は「事実」の客観指標である。このときから「医療を患者体験(事実)で評価する」という方向性を私たちは目指したといえるだろう。

だが今にして思えば、あらためて新しい調査システムを開発して把握するまでもなく、患者体験は、患者自身の手によってウェブ上に多数公開され始めたのである。闘病サイト、およびそれによって形成された闘病ユニバースである。「患者は、医療機関で何を実際に体験したのか」について、評価調査をわざわざ実施するまでもなく、これら闘病サイトで公開された膨大な体験ドキュメント(闘病記)が、医療現場で実際に体験された「事実」を最も雄弁に語っているのである。つまりリサーチャーの目から見ると、これら体験ドキュメント(闘病記)は、医療評価データの「宝の山」なのである。 続きを読む

闘病ユニバースとレガシー医療界

Enlightenment

かつてインターネットが登場したとき、その医療への活用がさまざまに論じられたのだが、その中からまず「啓蒙型医療情報サービス」というものが登場した。これは医療情報あるいは医学情報の専門性を過度に強調し、消費者をはじめ社会に「エビデンスに基づく正しい情報」を啓蒙するという基本発想に基づくものであった。同時に「正しさ」を証明するための「サイト認証」なども登場している。また、当時さんざん用いられた言葉に「情報の非対称性」という決まり文句もあった。これらは結局、医療情報についての専門家たる医療者だけを唯一絶対の「正しい情報源」とみなし、その他すべてを「疑わしいもの、いかがわしいもの」と排除するような硬直した情報観であった。かつて米国医師会(AMA)は患者に対し「インターネットの医療情報を見ないように」との声明を発したことがあったが、これも以上のような発想を根底に持つものである。そしてこのような医療情報観に立つ限り、医療者と消費者の関係は、極論すれば一方的な「命令-服従」関係にならざるをえない。情報の配信・受容という一連の関係が、リアルの諸関係を規定するからだ。「医師-患者」関係も例外ではない。

だが、レガシー医療界の目からすれば「疑わしさ、いかがわしさ」と見えるものが、実は硬直した「正しさ」を乗り越え、人々に自由な参加を促し、新しい知識や社会的価値を生み出す源泉なのである。つまり、AMAの発言にも明らかなように、もともとインターネットとレガシー医療界とは根本的に相容れないものだったのかもしれない。一方、闘病者たちは自発的にインターネットで自分の体験を語り始め、闘病の知識や情報をさまざまな形で共有し、集合知を分厚く蓄積し始め、闘病ユニバースが誕生する。 続きを読む