知りたくないこと、知らなければならないこと

pills

インターネットが登場して以来、「インターネットと医療」というテーマで今日まで夥しい議論があった。そして、そのほとんどは「インターネットによって医療は変わるだろう」という期待を楽観的に表明するものであった。では実際に何が変わったのだろうか?。そう問うてみると、答えに躊躇する現実がある。変わったのは医療それ自体というよりも、むしろ医療を取り巻く環境と言った方が良いだろう。

たとえば医療記録ということを考えると、従来、もっぱら医療者によってカルテやレセプト等で医療は記録されてきた。患者側の医療記録は「闘病記」などの形式で出版されてはいたが、費用と手間の負担からその数は限られていた。それに「闘病記」を医療記録と呼ぶかといえば、何かそぐわないような気もする。

インターネットの登場により、患者の手による医療記録が堰を切ったように公開された。当初、私たちもこれらを「ネット版闘病記」と見ていたが、やがて「作品」としてではなく、医療記録もしくはデータとしての価値を正当に評価すべきとの結論に達した。これによって、従来、医療者によって記録され医療界と行政の内部に蓄積され、一般の目には見えにくいものとして保存されてきた医療記録群の外側に、患者による事実体験の記録が新たに膨大な集積を形作り始めたのだ。私たちが「闘病ユニバース」と呼んできたのは、医療を取り巻く形で集積を始めた、これら患者の手による医療記録の集合体のことである。日本医療は、従来の医療界側の医療記録に新たに患者側の医療記録を加え、二つの視点からその事実が記録されるようになったのである。

これら患者側の医療記録集合体の中からほんの一部を取り出し、それを「闘病記」として閲覧に供するような方法では、これら医療記録集合体の持つ価値を十分に活用することはできないと私たちは考えた。そこでTOBYOプロジェクトをはじめたわけだが、TOBYOのようにどんどん闘病ユニバースを可視化し構造化していく手法は、実は、最小のリソース、最小のコスト、最小の時間で、最大の患者体験データベースを構築する方法だと思う。 続きを読む

「フラット化する医療情報」時代のリテラシー

HealthLiteracy

11月12日付け毎日新聞、東京版朝刊の記事「健康情報:見極めるには リスク、便益、費用…比べ選択 事例、還元し学び合う環境を」で、ほんの少しだがTOBYOが紹介されている。この毎日新聞記事は、先月掲載された朝日新聞記事「ネットの医療情報、見極める」とほとんど同じテーマを扱っている。おそらく朝日の記事に触発されたのだろう。

記事では、「二人の中山教授」による医療情報リテラシー解説が中心になっているが、特に中山和弘・聖路加看護大教授の下記コメントに共感した。禿同。

似た境遇にある人同士の体験情報の共有は「社会的なヘルスリテラシーを上げることにもつながる」と期待する。「自分だけ良い情報をもらって良い意思決定をしようというのは難しい。成功例や失敗例を還元し、学び合う環境をみんなでつくっていく意識が必要だ」

インターネットの登場により、『上意下達式に「正しい医療情報」を拝受する』という情報パターナリズムが過去のものになり、医療情報がフラット化してしまった以上、ネット上にオープンになった情報を「ユーザーが評価し、共有し、活用し、さらに評価する」という実践的利用サイクルをまわしていくことが重要になっている。極論すれば医療情報は「伽藍」からありがたくも説教されるものではなくなり、「バザール」でオープンに価値付けされ交換され共有されるものになった。「独占的に上から降ってくるもの」ではなく、「フラットに評価・共有されるもの」へと変わったのだ。これらの結果として、「個のエンパワーメント」が強化された反面、ユーザー一人ひとりの自己責任に帰せられる部分も増えた。 続きを読む

「ITで医療は変わるのか?」

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今宵は、Ustream「ITで医療は変わるのか?」をはじめから見た。特に、チーム医療3.0の皆さんの創意工夫に富むさまざまな実践活動紹介には感銘を受けた。医療者側でこのような試行錯誤が行われていることを知り、日本医療も捨てたものではないと素直に思えた。何よりも、従来の重厚長大で高価な完全無欠医療情報システムではなく、iPhoneやiPadなど手軽で身近でローコストなツールを「現場のアイデア」で活用しているところや、出来るところからどんどん現場課題を解決しようという実践的姿勢に共感した。「医領解放」というスローガンも良い。

欲をいえば、医療現場の効率化や情報共有に取り組むのは当然としても、医療者と闘病者との情報共有やコミュニケーション、そして医療情報提供への活用事例をもっと紹介して欲しいという感想を持った。また、PHRに対し医師側から「患者が自己の医療情報管理に腹をくくる覚悟も必要」という指摘があったが、たしかにパターナリズムから患者が自立していくことが、PHRなど新しい医療情報システムが成立する前提となるだろう。

前半は良かったが、後半はいささか冗長すぎ。毎度ながら、御大の「独演会」には食傷した。

三宅 啓  INITIATIVE INC.

ビジョンと教訓

11月に入った。夏場から開発してきたDFCをいよいよ仕上げる段階。開発の山はおおよそ越えられたものの、全体として工程は遅れ気味。。来年早々の稼働へ向け準備を進めていく。

昨日エントリの「メディラシージャーナル」だが、本日、全サイトを閉鎖したとのこと。思い切った決断に敬意を表したい。主催者ブログに「お詫び」エントリー がポストされた。「科学的根拠のない医療情報発信」、「科学的根拠のない広告が表示」との理由だが、それよりもっと基本的な「責任所在の明確化:主催者名、住所」、「広告とコンテンツの明示的区分」、「掲載情報の引用出典の明示」などが問題だったと思う。

案外、この件で改めて浮き彫りになった問題は、医療関連のコンテンツ連動広告や検索連動広告などのありかたかもしれない。従来野放しであったこれらの広告に対し、最近、一部のNPOが違法事例報告などを開始している。たしかにメディラシージャーナルのアドセンス掲出方法はやり過ぎの感が強く、「荒稼ぎ」批判も上がったが、結局一番儲けているのはGoogleなのである。いずれ、他社も含め違法医療関連広告の配信責任を問う声が起こってくるだろう。

もう一つ重要なことは、このメディラシー事件の一連の推移の中で「医療者以外は医療情報をあつかうな」という声が起きた点である。これは極端すぎるのではないか。もしも、こんなふうにウェブ上の医療情報配信が規制されるなら、闘病者が闘病体験を公開することもできなくなってしまうだろう。これを敷衍すれば「素人は医療に口出しするな」というところに行き着くはずだ。これはまさに患者参加型医療とは正反対のパターナリズム(父権主義)回帰である。メディラシー事件は、大衆の中に存在するパターナリズム回帰心情を顕に呼び出してしまった。医療を取り巻く私たちの現実は、このように可逆的で流動的な危うさを内包している。 続きを読む

医療情報の生態系 2

innocently

前回エントリでは、日本語ウェブ上の医療情報について、量よりも質を先に論じるような「問題」の立て方自体がおかしいと指摘した。医療界や行政などから出てくる医療情報量の少なさを見ずに、個人や民間企業の「怪しげな情報」だけを取り上げて警戒心を煽るような「問題」の立て方こそが問題なのだ。本来、医療界や行政側の医療情報が量的にもっと充実していれば、「怪しげな情報」の突出も後退するはずだ。医療情報を生態系として捉える視点とは、全体のバランスを考量する視点であり、一方を指弾する視点ではないだろう。

では、これから医療情報生態系はどのような進化をとげるのだろう。そろそろ今後のビジョンを思いめぐらす時期に来ているのかも知れないと、最近考えることが多い。というのは、ここ数年ウェブを支配してきたWeb2.0がそろそろ終わるかもしれないからだ。その兆候として、すでにSBMやRSSの関連サービスの衰退が指摘されている。数年前に一世を風靡したdiggの大規模リストラが伝えられるご時世なのだ。確かにSBMやニュース・アグリゲーターなどは、早晩、ツイッターに代替される可能性が高い。また、2.0に代わってソーシャルウェブという言葉が語られることも増えてきている。

欲しい情報へ到達する手段が、検索エンジンやSBMからツイッターやFacebookにシフトする可能性も論じられている。これらツールやサービスの消長の先にどんなウェブがあり、そしてどんな医療情報の生態系があるのだろうか。そんなことを考えはじめている。 続きを読む