三宅 啓 の紹介

株式会社イニシアティブ 代表 ネット上のすべての闘病体験を可視化し検索可能にすることをめざしています。

ビジョン不在の医療情報化論

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一昨日のエントリで、PHRに対する当方の当面の関わり方について述べた。もちろん医療システム全体における中心的役割を、今後PHRが果たしていくことはまちがいない。だが、この春発表された「日本版PHRを活用した健康サービス研究会」(経産省、厚労省、総務省、内閣官房)の総括報告書を読んで、本来のPHRがどのように矮小化されてしまうかを目の当たりにして、失望を禁じ得なかったのである。この研究会とその報告書に対する当方の批判は、こっちのエントリにまとめてある。

その後、「日本におけるPHR」の動向には全く関心がなかったが、一昨日エントリを書いてからGoogleで検索してみると、いくつか関連する出来事が浮かび上がってきた。どうやら「健康情報活用基盤構築のための標準化及び実証事業」というプロジェクトが経産省主導で動き出している模様である。ざっと目を走らせると、「やはり」と言うべきか、「またしても!」と言うべきか・・・とにかくこの種の官庁プロジェクトでは「お決まり」の「公募コンソーシアム」が募集・決定されている。予算は7億円で4つの「コンソーシアム」が決定済み。かつて数年前、厚労省がこの種の「健康関連市場開発コンソーシアム」を多数募集し実施していたが、結局、事業化にたどり着いたものは一つもなかったと記憶している。また個々の「実証実験プロジェクト」の結果がどうであったかも、一向に定かではなかった。果たして公表されたのか?。だが今回、経産省はじめ関係者諸氏は、きっと「結果責任」を取ってくれるのだろう。 続きを読む

パッケージからデータベースへ

先週、TOBYOが国会図書館Dnaviに収録されるというニュースをお知らせした。このことの意味を考えながら思い出したのは、6月初め日経新聞に掲載されたTOBYO紹介記事のことである。あの記事では、たしかTOBYOを「患者体験データベース」みたいな表現で紹介していたのだが、実はそれを読んで大きな違和感を感じていた。これまで「データベース」という言葉でTOBYOを考えたことがなかったからだ。

だが、今回の国会図書館Dnaviも「Deep Webにおけるデータベース」との表現によって、やはりTOBYOを「データベース」と見ているのである。「他人から見ると、そう見えるのか?」との意外感があるのだが、この他人のTOBYO観も一概に否定すべきではなく、そこに何か、新たに学ぶべき視点があるような気がしている。 続きを読む

日本のPHR(Personal Health Records)について

最近、PHR(Personal Health Records)について意見を求められることが多い。たしかに、日本語のまとまったPHR情報を探してもこのブログぐらいしかソースがない。そこで当方に問い合わせをしてみよう、ということなのだろう。以前はそれらの問い合わせに応じて、当方で把握している情報を提供したりすることもあったのだが、最近はこの種の問い合わせには対応しないようにしている。この場を借りて、問い合わせをされて来られる方々には不義理をご容赦願いたい。

まず、当方はPHR評論家でも研究者でもない。昨年来、Google Healthを中心にPHRに関するエントリはずいぶん書いてきたが、それらも新しい医療サービスを考える手がかりや教材として、また純粋に当方の思考実験材料に利用したにすぎないのである。それに、情報ソースもすべてウェブ上に公開されているものばかりであり、特別な取材源を持っているわけでもない。だから、誰でもすこし丹念に調べるつもりさえあれば、フィードリーダーなどを活用して必要な情報を好きなだけすぐさま集めることができる。中には「リンクやOPMLまで提供してほしい」というご要望を頂戴することもあるが、そこまで当方が手取り足取りして面倒をみるわけにも行かない。どうかご自分でお探しいただきたい。また、もちろんこのブログで利用できるところがあれば、どんどん使ってもらって結構である。 続きを読む

広告業界の後姿

昨日エントリで、戦後日本の消費社会を画する「潮目」の話をした。この「潮目」以降、コマンド&コントロール型マーケティングは実質的に終わったのであるが、そのことはまた、このタイプのマーケティングのエンジン役を果たしてきた広告業にも影響を与えることになった。本当は、それは広告業界にとって本質的な「脅威」であったが、このことを表だって広言する者はおらず、「脅威」は水面下に封印されてしまったのだ。

そして「潮目」からおよそ10年たった1995年。インターネットが本格的に社会に浸透し始め、それまで水面下に静かに潜行していた「脅威」はその破壊的パワーを蓄積しつつ、徐々に浮上し始めたのである。だが20世紀を通じて、水面下の「脅威」は可視化されず、誰もが「業界」という船上豪華パーティーにうち興じていた。 続きを読む

新しい医療ニーズへの洞察力

昨日、四年前に起きた福島県立大野病院事件で、福島地裁は医師側に無罪の判決を言い渡した。朝刊各紙ではこの判決を概ね妥当なものとしながらも、被害者および消費者側の医療不信にも言及している。事件当時から当方は、そもそも警察が医療事件を捜査すること自体に無理があると思え、また最善を尽くした医師を断罪することはできないとも思えたので、今回の判決に異論はない。

だが、日経紙面に「医師・患者、通い合わぬ論理」との見出しがあるように、今日の日本では医療者側が主張する「医療崩壊」と患者・消費者側が上げる「医療不信」の声が対峙し、まるでその間に架橋しがたい断絶があるかのようである。今回の事件はこのことを改めて鮮明に照らし出している。

ではこの「通い合わぬ論理」や「断絶」の原因を、一体どこに求めればよいのだろうか。これについても医療者側と患者・消費者側の双方にそれぞれの言い分があり、お互い相ゆずる気配はない。医療者側の言い分としては、昨年あたりから相次いで刊行された医師による著作、たとえば「医療の限界」(小松秀樹)や「誰が日本医療を殺すのか」(本田宏)などを読めばその概略をつかむことはできる。そこでは「日本人の死生観」の問題であったり、大衆消費社会によって「増長」してしまった消費者意識であったり、さらには「新自由主義の社会風潮」などが「元凶」として批判されている。このブログの書評でもこれらの本は取り上げてきたのだが、なんというか、これらの「医師本」の時代認識には大きな疑問符を付けざるを得なかった。そもそも、その「大衆に向けたお説教」みたいな語り口に辟易してしまったのである。消費者大衆に向け「きちんとした死生観をもて」などと説教しようという、そのアナクロな感性にまったく同調できないのだ。これでは医療者と患者・消費者の間にある溝は、ますます広がるばかりである。 続きを読む