量から質へ

サーバ不調により、このエントリは「iza」の方へポストしたものを転載した。

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TOBYOのサーバ絶不調(!)。シリコンバレーあたりで遊泳中の鯖だが、暑さのせいかダウンした模様。ハードを交換するとの連絡が入った。困ったものだが、今回はこちら「iza」の方からポストさせてもらう。

さて、この春から「闘病者(患者、家族、友人)の情報共有ツール=TOBYO(闘病)」を公開してきたが、はやくも収載闘病記サイト数は1万に近づいてきている。1万サイトに到達した時点で「量的確保」という初期目標は一応達成されることになり、その後は、新しい目標を持って仕事を進めていきたいと考えている。一言でそれを言えば「質的充実」ということになるだろう。

まずやるべきことは収載闘病サイトの吟味である。これまでも偽装サイトやスパムサイトを除去し、また一定の水準に達していない闘病サイトを登録保留にするなど、サイト登録時点でラフなふるい分けはおこなってきている。たとえば闘病情報が2-3ページしか掲載されていないサイトとか、作者側の「闘病サイト」という明確な意識が感じられないサイトとかの場合、常識的な基準からサイト登録の可否を判断してきた。ユーザーが安心して闘病サイトを利用できるように、一定の水準以上の良質のコンテンツを提供すべきだが、一方では、あまり当方が「編集者」として介入しない方が良いとも考えている。最低限のフィルターを掛けながら、あとはユーザーの判断に任せるのが、おそらく一番正しいやり方なのだろうが、すでに収録済みのサイトを「質」の観点から見直していきたい。 続きを読む

ウェブ闘病記とパブリック

たとえば最近出た「リアルのゆくえ」(大塚英志、東浩紀、講談社現代新書)を読むと、「パブリック」をめぐる議論が決して対談者双方の交点を見出すことなく、延々とすれ違いながら展開される光景に呆然としてしまうのだ。「パブリック」という、わかったようで実のところよくわからない概念で何かを語ろうとするとき、どんな議論もどこかですれ違ってしまい苛立ちだけが残る。

それよりも「パブリック、公共性」という言葉自体が、今日こんなに露出してきたのはなぜなのか。前書では次のような発言がある。

「東 ちょっと話を変えますがGoogleというサービスがありますね。ぼくは、むしろああいうものから新しい公共性について考えたいんです。
人間は共同で何か仕事をしないと生きていけないから、人と人を繋ぐテクノロジーは必要である。しかし、そのテクノロジーが、すごく大きく変わるときがある。そもそも国家だって、みんなが国家をつくろうと思ってつくったのではなく、ある技術的条件のなかでなんとなくできあがった共同作業のシステムが、事後的に「国家」と呼ばれ、公共性が見出され、その運営システムが開発されてきたということだと思うんです。そういう観点からすると、いまGoogleのようなウェブサービスは全く新しい共同作業のプラットフォームとしてあって、その運営方法も従来の公共的なコミュニケーションとはぜんぜん違う。しかも、いま現にそれが人々の生活に巨大な影響を与えている。そこには新しい公共性の可能性を感じます。(「リアルのゆくえ」第三章2007年)」

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