スペクタクル社会からの脱出

spectacle福田首相の突然の辞意表明に続く一連の「自民党総裁選」を眺めていると、今に始まったことではないが、政治そのものがスペクタクル(見世物)と化し、さらにマスコミを通して拡大増幅された「物語」が消費に供されるという、一種の「閉回路」が社会的に完成されている事態を改めて思い知らされる。今回はさすがにマスコミも三年前の郵政解散を反省し、「慎重な対処の仕方」を模索しているという。

だが、今さらどのように「慎重な対処の仕方」があるというのだろう。そこに興行価値があるかぎり、スペクタクルをみすみすマスコミが無視できるはずもないのである。「事実」をスペクタクル(見世物)に矮小化してしまえば、どのような事実もただ興行価値の観点からのみ判断されることになる。どのような「事実」も、それがわかりやすく人を驚かせたり感動させる「物語」として成立することが必要であり、そのことが「事実」のニュースバリューとさえみなされるようになる。 続きを読む