スペクタクル社会からの脱出

spectacle福田首相の突然の辞意表明に続く一連の「自民党総裁選」を眺めていると、今に始まったことではないが、政治そのものがスペクタクル(見世物)と化し、さらにマスコミを通して拡大増幅された「物語」が消費に供されるという、一種の「閉回路」が社会的に完成されている事態を改めて思い知らされる。今回はさすがにマスコミも三年前の郵政解散を反省し、「慎重な対処の仕方」を模索しているという。

だが、今さらどのように「慎重な対処の仕方」があるというのだろう。そこに興行価値があるかぎり、スペクタクルをみすみすマスコミが無視できるはずもないのである。「事実」をスペクタクル(見世物)に矮小化してしまえば、どのような事実もただ興行価値の観点からのみ判断されることになる。どのような「事実」も、それがわかりやすく人を驚かせたり感動させる「物語」として成立することが必要であり、そのことが「事実」のニュースバリューとさえみなされるようになる。

事実を事実として見るのではなく、スペクタクルとして見るとき、われわれは当事者になる可能性を奪われ、事実から疎外された単なる「観客」という立場に身を置くことになる。このようなスペクタクル化された政治において、国民は「観客」ではあっても決して主権者ではないだろう。われわれが「事実」に到達するためには、われわれと事実の間に介在する、膨大な「中間項」を乗り越えていかねばならない。事実の直接性を回復するということは、そのような煩雑さに耐え、事実の前に直接身をさらすヒリヒリとした緊張感に耐える勇気さえ要するということだ。政治はパブリックな領域にあり、まちがっても茶の間にはない。家でマッタリとテレビを見ている限り、事実の直接性に触れることはないのだ。

よく知られているように、ハンナ・アーレントは人間の最高の行為として「活動」という概念を示した。「活動」とは人間が単なる動物を超え、言語と歴史の連続体の中へ参加し、そこで言論活動を通じて自己を表明するパブリックな行為である。そしてこれら「活動」の結果として、人間は自己が何ものであるかを他者に露わにするとしたのである。この「活動」にはいかなる間接性も介在しておらず、古代ギリシャのポリスで行われていたような、直接的な言論活動がおそらく想定されていたであろうことはまちがいない。

今日、われわれはウェブを利用して、パブリックな場へ直接参加できるような、ハンナ・アーレントが「活動」と呼んだ行為をすぐに実践できるような、そんな技術的環境をすでに手に入れているのではないだろうか。われわれがブログを書くとき、われわれはパブリックな場へ直接向かい合うような、「ヒリヒリ」するような快い緊張感を持って言論「活動」をしているはずなのだ。そこにはいかなる「中間項」も介在しないのだ。そしてそのような「活動」に対しては、いかなるスペクタクルもその興行価値を失うのだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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