ハーベイ・ピッカーの死とHCAHPSの起動

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土曜日のNew York Times紙面に、ハーベイ・ピッカーの死が報じられていた。そして奇しくも同日の医療関係ブロゴスフィアでは、なんとCMSによるHCAHPSの本格的運用が伝えられたのだ。「ハーベイ・ピッカーの死と、HCAHPSの起動がほぼ同時期に起きるなんて・・・。これはなんという偶然なのだろうか」。ある懐かしさに似た感情を抑えられず、このような感懐にひと時ひたったのである。とは言え、日本ではハーベイ・ピッカーの名も、HCAHPSという米国の国家医療プロジェクトの存在も、ほとんど全く知られていないのが現実かもしれない。

だがこの両者は、われわれが医療分野においてベンチャーを志した当時の、いわば原点とも言える場所に位置する大切な記憶なのである。われわれはハーベイ・ピッカーがボストンに設立したピッカー研究所の「患者中心医療の8次元」という理論的成果を学び、そこから現代医療についての基本的なパースペクティブを獲得した。さらにそのピッカー理論に基づいて構想された困難を極める国家プロジェクトHCAHPS、そして英国CHIをはじめとする患者視点医療評価プロジェクトの研究に取り組んだのである。われわれは当初これらの研究成果をもとに、PSIと名付けた医療評価調査システムを結実させようとしていたのだが、様々な理由もありこれは断念した。しかし、これらの過程で学んだことは、確かにTOBYOに引き継がれていると思える。最初のピッカー理論との出会いがなければ、われわれは、現在のようにTOBYOへの道をたどって来てはいなかっただろう。

New York Timesでは「患者中心医療」(Patien-Centered Care)という言葉を生み出したのが、実はハーベイ・ピッカーとピッカー研究所であったと讃えている。そのとおりだ。今日、誰しも使うようになった「患者中心医療」という言葉だが、これは1986年に設立されたピッカー研究所の非常にユニークな医療研究がなければ、決して生まれてこなかった概念である。ハーベイ・ピッカーは米国のX線医療機器会社”Picker X-Ray Company”の経営者であったが、妻で米国政府の国連大使も務めたジーン・ピッカー夫人の不治の病の看護経験を経て、医療を患者ニーズに即したものに変えるための研究を思い立った。そしてハーバード・メディカル・スクールの全面的協力のもとに、ピッカー研究所の大規模な医療調査が開始されたのは80年代末から90年代初頭にかけてのことであった。

この調査研究成果はのちに有名な「Through The Patient’s Eyes」という本にまとめられるが、ここで提起されたピッカー理論は医療評価におけるイノベーションであり、90年代を通じて世界各国で評価され、英国、ドイツ、カナダなど各国の医療評価システムをはじめ、WHOにまで採用されたのであった。そしてさらに、米国では2002年から開始されたHCAHPS(Hospital Consumer Assessment of Healthcare Providers and Systems)の理論的主柱となるのだが、これまで「患者満足度調査」などを手掛けてきた、古いトラディショナル調査ベンダーからの業界ぐるみの反対に逢着するのである。

HCAHPSは、消費者に各医療機関の患者視点による品質評価データを提供し、消費者による医療機関の比較と選択を支援することを目的とする、全米の全病院を調査対象とする国家プロジェクトであった。しかし、古い体質の調査ベンダーの業界ぐるみのロビー活動などもあり、遅々として進行せず、ようやく調査が実施されたのは2006年になってからであった。

紆余曲折を経て、やっとHCAHPSは調査データをウェブサイトで公開するところまで来た。HHSのレビット長官の言によれば「まだまだ洗練されたデータではない」とのことだが、とにかく全米のほとんどの病院を、同一尺度で評価するデータが公開された意義は大きい。しかし、これとほぼ期を同じくする3月22日、ハーベイ・ピッカーはメイン州カムデンの自宅で息を引き取った。92歳であった。冥福を祈りたい。

なおピッカー理論のバイブルとも言うべき「Through The Patient’s Eyes」だが、日本では「ペイシェンツ・アイズ」という邦題で日経BPから出版されている。しかし翻訳の出来があまりにもひどすぎるので、原書を読まれることをすすめる。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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