ときどき「患者SNSはどうあるべきか?。またそのフィージビリティは?」という議論をすることがあるのだが、米国の状況を見ていると、PatientLikeMeのような特化型患者SNSが成功しているのに対し、いわゆる一般的な汎用患者SNSはさほど成果を挙げていないようである。この点をどう読むかが、患者SNS開発の一番重要なポイントであるだろう。
患者SNSに対するユーザーニーズは、どうやら「似た者同士の交流」というような、誰もがすぐに思いつくものとは、まったく違うものとして考えなければならないのではないだろうか。「心の安らぎ」とか「慰安、癒し」などをシェアする場としてではなく、先日、ニューヨークタイムズがPatientLikeMeの紹介記事にいみじくも付けたヘッドライン「Practicing Patients」が示すように、「アクティブに病気を克服する実践的な活動の場としての患者SNS」という新しいイメージを持つことが、いまや必要になっていると思うのだ。
つまり患者ユーザー側のニーズと、サービス提供側が固定観念として持つ患者イメージや開発イメージの間に、なにか決定的なギャップがあるように思えるのだ。たとえば、最近、ある日本のウェブ医療サービスサイトを見ていたところ、「感動を共有しよう」みたいなコピーが掲出されているのに目がとまり、とても居心地の悪い違和感を覚えずにはいられなかった。この「感動」って、いったい何のことなのか?。当事者である闘病者(患者、家族、友人)にとって、「感動」というような第三者的な視点で、自分たちの闘病生活を見ることなどできるわけがない。闘病記を読めばわかるが、個々の闘病生活を流れる時間は、誰にとっても淡々と過ぎる日常の時間である。そこに過剰な「物語」を読み込んでしまうと、闘病者が生きている「現実の時間」は見えなくなるのだ。
われわれは、新しいヘルスケア・サービス開発に妙な「感傷」やら「倫理」を持ち込むことに反対する。なぜなら、それらはありのままにユーザーニーズを見ることを妨げるからだ。ありのままに医療と闘病者を取り巻く現実を直視することを妨げるからだ。
闘病記を読めばわかるが、おそらくわれわれは、巷間流布している従来の「患者像」さえも、もはや変えなければならないだろう。そして新しい患者像を持つ必要があるだろう。そのことに、いち早く気付いたのがPatientLikeMeだと思う。特定の疾患、それも難病にフォーカスを絞る。患者の治療データ公開と共有を徹底する。これらを通じて、PatientLikeMeは患者が病気に打ち勝つための活動的な場を提供し、これがユーザーに支持されているのである。
「患者はこうだ」みたいな、患者に対する固定観念やクリシェを持つことを禁止しなければ、新しい医療サービス開発などおぼつかない。感動落涙するような皮相な感傷を持ちこんで、医療に関連するサービスにコミットすべきではない。
「物語」は常に饒舌で過剰だ。「現実」は常に寡黙で稀少だ。押し寄せる「感傷」や「倫理」のノイズ群から、「寡黙で稀少なる現実」をすくい上げることが求められているのだ。そしてこれは、そんなに容易なことではないだろう。
三宅 啓 INITIATIVE INC.
ピンバック: Medical Marketing Lab.