PHRは、なぜ動かないか

Google Health

天候不順のせいかあまり体調が良くない。一昨日、Yahoo!Newsの方に記事を書いたわけだが、ずいぶん久しぶりにPHR(Personal Health Record)のことを考えた。もっともこのブログのカテゴリー欄を見てもわかるように、これまで95件もPHR関連エントリを公開している。自分にとっては、Helth2.0と共に、一番力を入れて考えてきた分野がPHRだったと言えるだろう。

このブログを始めたころは、医療ITといえばEMRやEHRが中心的な話題であったが、どうもそれらの議論は、患者が不在のままに「政府とITゼネコン」ベースで進められているように思えたのである。だから海外ブログを漁っているうちにPHRという言葉を発見したとき、「個人」をベースに考えるというその新鮮な発想に共感したものだ。やがてGoogle Healthの噂が伝わってきたが、医療とITに関心を持つものなら、みんな本当に「これで医療が変わるのではないか」という期待を持っていたと思う。

今、PHRの実現を主張している人たちも、やはり同じような期待感に高揚しているに違いない。それらの期待感やチャレンジに水を注すのはやはり心苦しいのだが、それでもGoogle Healthが失敗したという事実から目をそらすわけにはいかない。すでにその失敗の事実を知っている私たちは、それに口を閉ざすことなく、そこから何かを学び取って、これからの自分たちのビジョンを再考する責任があるのだ。

Google Healthの失敗については、すでに多数の意見が公開されている。今回、改めてそれらのうち二-三読んでみたが、後日、いずれまとまった考察を述べてみたいと思っている。今言えることは、「消費者側にPHRのニーズがない」ということ、それに「個人の自発性で医療情報を管理するのは、個人にとっては重荷だ」という二点になる。

Google Healthの中止が発表された2011年初めに米国で実施された調査(IDC Health Insights)によれば、「なんらかのオンラインPHRを利用している」のは消費者のうち7%で、そのPHR利用者のうち今後も継続して利用意向を持つのは半数、つまり全消費者の3.5%に過ぎなかった。他の調査もほぼ同様の結果となっていた。そして、次に「個人の自発性」である。結論から言ってしまえば、なんのインセンティブもなく、ただ「個人の自発性」だけに依拠するような、そんな情報システムが存続することは極めてむつかしいということだ。

Google Healthの開発チーム責任者であったアダム・ボズワース自身が、のちに「人々は何か楽しいこと、面白いこと、また誰かとつながることができるからネットを利用する。単にデータを入力するだけで利用する人はいない。」という主旨の発言をしている。かつて私も、PHRという言葉、特に「パーソナル」という言葉に魅了され、患者・消費者「個人」を起点として、医療界の旧弊を打破できるのではないかと夢想したことがあった。このブログの初期のPHR関連エントリで、そのような論調を張ったのは事実だ。

だが、たとえば重篤な病気の患者、あるいは難病と言われている病気の患者なら、たしかに「個人の自発性」を発揮して、日々のデータ入力の手間さえいとわないだろう。PatientsLikeMeがその実例だ。それに、私たちがずっと取り組んできた闘病ブログなど患者ドキュメントも、「患者の自発性」だけに支えられて大量の記録が公開されているのだ。だが、これらもどちらかといえば、大病や希少疾患に罹った闘病者が書くケースが圧倒的に多い。風邪をひいて「闘病記」を書く人はいないのだ。

思うに、私たちは多分に「医療ニーズ」というものを読み間違えることが多い。そのことに気付かねばならない。「医療は万人にとって必要だ」ということは真実だが、だからといって「万人が、常に、切実な医療ニーズを持っている」ことにはならない。重篤な病に罹った人のように、シリアスで大きなニーズを医療に対して持っている人がいる反面、たまに風邪をひくぐらいで、ほとんど医療ニーズなど意識していない人もいる。つまり「要、不要」が非常に明確に分かれるのだ。そこを、たとえば「慢性疾患予防」みたいな、もっともらしい合理的ロジックで説得することは、実際は不可能に近い。医療に付きまとう「普遍性」みたいなものを、消費者ニーズについては疑ってみることが必要なのだ。

また私たちは、社会における医療ニーズの総量というものを過大評価しがちだ。医療ニーズの様態は、実は「要、不要」すなわち「1かゼロ」みたいなデジタルなあり方をしているのに、常に一定量以上のニーズを誰もが平均して持つ、と仮定するから間違えてしまう。
「オンかオフか」という発生ベースであるニーズを、平均値を足し算できるようなニーズだと勘違いしてしまう。PHRに対するニーズも医療ニーズとまったく同じで、個人レベルでは「1かゼロ」、「オンかオフ」という形で存在するしかないのだ。だから「国民、誰もが利用するPHR」みたいなものは、最初から存在することが不可能なのだ。

「たしかに、一応、理屈ではわかるのだが、実際には動きそうもない」

それがPHRである。「個人」に着目するのはいいだろう。だが「個人の都合」や「個人の気まぐれ」まで想像力を働かせなければ、それは単に「美しい話」なだけのことだ。近年、役所がさかんに言っている「どこでもMy病院」だが、しっかり眉に唾をつけて聞くべきだ。これらには、「個人」を動かすインセンティブがどこにも存在しない。「個人のホンネ」に決して届かない、ただの役人ロジックになってしまっている。そのことに気付いてほしい。そして、「個人」というエンジンが動かなければ、PHRはどこにも行きようがないのである。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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