dimensionsで扱うデータは、私たちが闘病ユニバースと呼んできたウェブ上に公開された闘病者のドキュメントである。これらのデータはどのような特徴を持っているのだろうか。患者アンケートやヒアリングなど他の患者ソースのデータと、どこがどのように違うのだろうか。
TOBYOプロジェクトを開始するに当たって、私たちは闘病記というものを改めて考察するところから出発し、ウェブ上の患者ドキュメントの性質をさまざまな角度から見てきた。その過程で、まず従来のリアル闘病記、つまり本としてパッケージ化された闘病記とウェブ上の闘病ドキュメントの差異を考えざるを得なかった。しばしば「われわれはネットから医療を見ている」という言い方をしてきたが、実はこのような考え方は、リアル闘病記とウェブ闘病ドキュメントの差異認識に由来するものである。だがこのことについては、後日、あらためて論じる機会があると思う。
さて、ウェブ闘病ドキュメントと患者アンケートやヒアリングなど患者調査データとの違いであるが、まず一番大きな違いは、なぜそのようなデータが作成されたのかをめぐるデータ生成の動機である。ウェブ闘病ドキュメントはあくまで闘病者自身のため、すなわち純粋に「自分のために書く」ことが動機になっており、それは闘病者自身の内発的な自発性だけに依拠している。対して患者調査では、データ生成動機は闘病者の内部には存在せず、リサーチャーやモデレータなど外部の第三者が闘病者とは無関係に作成した調査目的に依存している。
言ってみれば両者の違いは、データ生成動機が闘病者の内部にあるか外部にあるかという点だけなのだが、これによって生じるデータの質的差異は非常に大きいと私たちは考えている。自分から発話するか、誰かに発話させられるか。このことは発話の内容を大きく規定するはずだ。「誰かに発話させられる」あるいは「誰かから質問され、答えさせられる」という場面に置かれたとき、往々にして人は「自分に求められている役割と、自分が回答することを期待されている答」を先回りして探ろうとする。それは相手の調査目的を推理し、そこに求められる自分の役割と発言を果たすほうが、要らぬ軋轢や摩擦を回避できると本能的に察知するからだ。すなわち、空気を読んでしまうのだ。このように本来の自発性は、空気を読むことによって「強いられた自発性」に転化する。「求められている役割」を「自発的」にこなそうとするからだ。
すべての消費者調査はこのようなバイアスを避けようがない。また、少し前から医療分野周辺で言われてきた「ナラティブ」にしても、それが自発的であるかどうかによって、その発話の持つ意味は大きく変わってくるはずだ。カメラとマイクを向けられ、他者の視線にさらされ、他者から質問される。そのような場に立たされたとき、そこで生成される発話は本来の自発的発話と言えるだろうか。発話者は自己内部の自発性によってではなく、他の何か(自分に期待されている役割)に基づいて発話することを強いられる可能性が大きい。その際、いわゆる「ホンネ」とは違うことまで発話させられる、発話してしまう、そんな場面もあるだろう。
すべての消費者・患者調査は「質問者 対 回答者」という構造を持たざるをえない。そして回答者という立場に無理やり置かれた時、人は本来の自己ではない「回答者A」というペルソナを演じ始めるのである。
ところでウェブ闘病ドキュメントというものは、あくまでも闘病者の自発性に基づいて作成され公開されている。誰かによって作成依頼されたり、誰かから謝礼をもらったり、誰かが用意した場所で発話させられたりすることとは一切無縁なのである。だから、これまでのどの患者調査手法から得られたデータよりもバイアス・フリーであり、より一層「患者のホンネ」に近いのである。私たちは「伝言ゲーム」ではない直接性をdimensionsでめざしているのだが、もう一方、以上述べてきたようなウェブ闘病ドキュメントのデータ性質にも着目してきた。ウェブによって、このような「患者のホンネ」の直接表現が大量に公開されるようになった。このような新たな状況に対応する調査イノベーションが求められており、dimensionsはその一つだと考えている。
だがこのような新たな状況は、調査手法のみならず、調査結果、出力、分析、理解等にも新たな対応を要求していると最近思うようになった。たとえばウェブ闘病ドキュメントはバイアス・フリーだが、その表現形式や内容は極めて不揃いである。そこをうまく要約し分析したレポートを望む声は多い。そのことはよく理解できるのだが、もうそろそろ、小奇麗にまとまった「レポート」を作る時代でもないと思う。
dimensionsの基本構想を検討していた初期、実は患者体験レポートを出力しライブラリー化するようなイメージもあった。だが、それは徐々に消えていき、かわって患者体験ドキュメントを様々な角度から可視化するようなツールとしての機能イメージがメインとなってきた。それはなぜかと問われると、自分ではない誰か「専門家」が要領よくまとめたレポートを読めば良いみたいな、そんな従来の調査やデータにつきまとう固定観念が、ウェブ進化に伴い実質的には終わっていると思えたからだ。
さらに言わなければならないのは、せっかくバイアス・フリーのデータがダイレクトに入手できるようになったのに、どうしてわざわざ「専門家」の御託宣(バイアス)を付けたデータを読む必要があるのか、ということだ。前世紀のマーケティングやマネジメントの「専門家」たちが繰り出す「美しいロジック、きれいな話」には、いいかげんもう飽き飽きだ。時代は変わった。「美しい、きれいな結論」をありがたがるような時代はもう終わったのだ。
たとえばアンメット・ニーズの探索だが、これはデータからリニアに形式知化することが困難だ。自分が暗黙知レベルで感得し、試行錯誤の上、徐々に形式知化するほかないのだ。「美しい結論」を誰かに作ってもらうような安直な発想では、もはやマーケティングなどやってられない。
もう20世紀のように誰か「専門家」にお願いして、不揃いなデータを「美しい話」にしてもらう必要はない。むしろその過程で、データ自体が変容してしまうからやめるべきだ。データによってデータを、事実によって事実を語らしめよ。不揃いなデータ、不揃いな事実に自分で分け入り、闘病者の日常生活とホンネに棲み込み、暗黙知レベルで感得すべし。事実は不揃いなのだ。そしてそのような暗黙知の日頃の蓄積が、いずれ形式知へ転化し出力されるだろう。これらのプロセスを自分の仕事として認識出来るかどうか、これがこれからのプロフェッショナルの条件なのだ。
すなわち「間接的に専門家から”美しい結論”を傾聴する」時代は終わり、「直接、患者・消費者の声を傾聴する」時代が始まっているのだ。
dimensionsは「美しい話」など結果を出力するものではない。あくまでもプロフェッショナルの仕事のプロセスを効率的に支援するツール群である。不揃いな事実に向き合えるのなら、それを避ける必要はない。
上図のようにこれまでの患者調査は、まず、たとえばある病名の患者を集める必要があった。患者探索である。ここに時間と費用がかかった。そして、これまで述べてきたように、集めた患者にAskをすることから生じるバイアスも避けようがなかった。dimensionsは、これら従来の患者調査が抱える問題を乗り越えるための新しい方法を提供している。
三宅 啓 INITIATIVE INC.