闘病ドキュメントを医療評価に活用する

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昨日のエントリをポストした後、何かモヤモヤした気分でDenise Silber氏の「レーティング対ナラティブ」という図式のことを考えていた。そして結局彼が言いたかったことは、「ナラティブという形での医療評価もある」ということに尽きると思い至った。そしてそのことは、この間、当方の問題意識が「闘病記」というパッケージから次第に離れてきたこととも関連すると気づいた。

近年、様々な形で闘病ドキュメントに対する関心が高まってきているが、それらの多くは「闘病記」というパッケージとして闘病 ドキュメントを見たり、「患者の語り」という部分に特別の拘りを示したりするような見方が多かった。本来、どのように見ようと自由なのだが、これらの見方は闘病ドキュメントの可能性を限定し捨象するもののように当方の目には映ったのである。

ネット上に出現した闘病UGCは、紙や映像メディ アにパッケージ化されるような従来の「闘病記」ではない。そこに「作品性」や「物語性」を見るのではなく、闘病者をはじめ医療プロバイダーやサプライヤー など医療関連諸集団に対し、なんらかの実践的な問題解決を生み出す力があると見るべきだ。

対して「作品」や「物語」はそれら自身で自己完結するものであり、具体的な現実の問題を解決するために制作されているのではない。たとえば「文学」は現実問題を解決するためにあるのではない。どのような表現 も表現の力だけで自立すべきなのだ。そしてこのような芸術表現と闘病ドキュメントを混同してはならない。

Denise Silber氏が「レーティング対ナラティブ」という図式でもって提起しているのは、「ナラティブ形式の医療評価」への注目喚起である。それは「患者の語り」という点をむやみに強調するのではなく、「具体的な医療改善に資するデータ」という実践的側面に力点があるのだ。「Patient Opinion」に投稿された体験コメントは、どのような種類の「作品」とも、「物語」とも、また「患者の語り」への拘りとも無関係であり、ただ「病院のサービス改善」という一点でのみ活かされる「データ」なのである。

昨日エントリの最後に「では日本はどうか。日本では、まったく何も始 まっていない。」と書いた。たしかに患者視点による医療評価など、日本では一部の「患者満足度調査」の試行を除くと、まったくの「真空地帯」なのだ。こ の点では日本の消費者は米国や英国の消費者に比べ、圧倒的に不利な立場を強いられている。病院選択のための比較データをほとんど何も提供されていないからだ。

また、日本では患者体験映像や闘病記や患者コメントから、具体的な病院名や医療者名を削除したり、あるいは病院のマイナス評価を削除したりする向きもあるようだ。このような検閲行為は結果として医療評価を否定することになる。英「Patient Opinion」などを見ると、病院名や医師名を具体的にあげるのはあたりまえで、かなり辛辣なコメントまで投稿されているが、それらは「医療機関のサービス改善に必要なデータ」として社会的にその価値を認められているのである。

映像であれテキストであれ、日本の患者体験ドキュメントの扱い方はかなり偏っているのではないだろうか。どこが偏っているかといえば、医療評価の視点がほとんどない点である。貴重な患者体験ドキュメントを医療評価に活用しようとしないのはなぜなのか。その問題をDenise Silber氏は気づかせてくれている。

もちろん、TOBYOプロジェクトは闘病UGCを医療評価のために活用していくだろう。それのみならず医療関連製品評価にも活用していく。たとえTOBYOがやらなかったとしても、きっと他の誰かがそれらをやり始めたにちがいない。なぜなら、それが世界の大きな潮流であり、誰もそれを押しとどめることはできないからだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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