米国で先月22日から立ち上げられた「医療情報の権利宣言」サイトだが、その後、宣言支持表明者は1000名を越えたようだ。(「権利宣言」については以前のエントリを参照のこと)。宣言支持表明とともに書き込まれたコメントには、医療情報請求の現状に対する不満が数多く指摘されているようだ。医療機関に対し自分の医療情報であるカルテ等情報を請求しても、スピーディーに対応してもらえず、しかもコピー代金を取られるからである。
自分の医療情報を入手するのに、早くて一か月、へたをすると三か月以上も待たされるのみならず、コピー一枚に付き1ドルが請求されるのである。この驚くべき官僚主義的対応の原因として、HIPAA法(Health Information Portability and Accountability act)の存在を指摘する声が日増しに高まっている。「権利宣言」の発案者の一人であるアダム・ボスワース氏(GoogleHealthの前開発責任者)は、「HIPAAは1996年に作られた法律であり、今日の情報技術に適応していない」と批判しているが、このHIPAA法が官僚主義的対応を温存する法的根拠になっていることは事実であるようだ。
これらに関連した多くの海外ブログを読みながら、昨日の「戸塚氏のインプリケーション」の問題を考えてしまった。今、あえてあからさまに言う必要もないだろう。戸塚氏が暗黙的に示していたのは、実は上述の「権利宣言」で明らかになってきた事々と関連しているのだと思う。そう考えると、戸塚氏の闘病ブログは、いままで私たちに見えていたのとは別の側面を持っているように思える。同じドキュメントがまったくちがう相貌をもって、私たちに語りかけてくるような気がするのだ。
そしてさらに、あらためて「患者が自己の医療情報を記録する」ことの意味が問われる。昨日も述べたように「医療情報の記録」自体は、医療者側が専門的に実行していることであり、同じことを患者がする必然性は低い。だが、それをあえて患者が実行する意味とは何だろうか。そこを考えていくと、「医療情報の公開と共有」、さらには「参加型医療」という、医療情報のあり方や、患者の医療に対するかかわり方に関する新しいプリンシプルへと道が通じているような気がする。戸塚氏自身はそこまで明言していないが、単にネガティブなインプリケーションを読み込むよりも、むしろポジティブなメッセージを想起し、バトンを受け取る方を選択したい。
三宅 啓