医療をめぐる言説空間

zakki今週、混合診療禁止は違法であるとの画期的な判決が東京地裁から出た。振り返ると政府の総合規制改革会議「基本方針2003」にも「いわゆる「混合診療」の解禁(保険診療と保険外診療の併用)」が盛り込まれているが、その後、さしたる進捗もなく店晒し状態にされてきたと言える。それが患者個人の訴えによって、現状の「禁止状態」が違法であるとの判断まで示されたとは、なんとも皮肉な成り行きである。

さてこの判決はガンや難病に苦しむ患者達に歓迎されているのだが、一方、医療者側の反応をウェブで見る限り、そのほとんど全てが一様に混合診療反対を異口同音に主張しているのを目にし、奇異の念を抱かざるを得ないのである。その「奇異」の中身を吟味してみると、問題は混合診療の是非にではなく、なぜに医療者と一般生活者・患者との間にかくも意見の懸隔があるのかという点にあると思われるのだ。

医療について前から気になっていたことがある。それはどうも「医療界内部の常識」が、社会一般の「生活者側の常識」と何かかなりずれているような気がするのだ。今回の混合診療判決に対する医療者の反対意見などをブログで読むと、やれ「金儲け主義の財界」だの「財界による皆保険制度解体の策動」などの文言が散見されるが、大昔の左翼の言いぐさでもあるまいし、その時代錯誤性には目眩さえ覚えるのである。

かつて評論家の江藤淳は「戦後日本の言説空間は歪んでいる」と主張していた。GHQによる占領時代から日本社会は目に見えない傷を負い、その言説空間は自由な様を装いながら実は歪んでおり、そこに放たれる言葉は対象と絶えず一定のずれを持たざるを得ない。江藤淳のこのような問題提起を想起すると、先述した「奇異さ」の淵源に「医療をめぐる言説空間は歪んでいる」という言葉を置くことができるのかも知れない。

医療を語るとき、なぜか一定のバイアスがどのような言説にもかかってしまう。これはなぜなのか?。「混合診療」という言葉を聞いて、条件反射的に「反対」論が口をついて出てしまうのはなぜなのか?。現実に実現可能な修正をすれば済むことに、「オール・オア・ナッシング」的な言辞を吐いてしまうのはなぜなのか?。医療をめぐるわれわれの言説空間は、このように貧困でしかも歪んでいるのではないか。

「医療のことは医療者やプロに任せておけばよい」ではもう済まなくなっている。むしろ、生活者・患者を始め他分野の専門家も含め、もっと医療に対し発言をしていくべきだ。たとえば最近、米国やヨーロッパで医療に対するコンセンサスとなりつつある「Value Driven Healthcare」という考え方がある。今週発表されたEUの医療戦略白書”Together for Health: A Strategic Approach for the EU 2008-2013″にもこの考え方が盛り込まれているが、実はこの概念は医療界内部の人間が作ったものではなく、マーケティングの専門家であるハーバード大学マイケル・E・ポーター教授が提唱したものである。

このように医療界の外部の専門家が医療について積極的に発言し、ポーター教授のように医療改革のフレームワークまで提言するような例が欧米では増えている。先日紹介したインテル前会長のアンディ・グローブ氏など、経営者側も積極的に医療問題に関わっていこうとしている。そして医療者側もHealth2.0の理論家であるスコット・シュリーブ医師のように、ポーター教授などが開発したフレームを積極的に活用して新たな提言をしているのだ。

このように異分野や生活者・患者側が、もっと積極的に医療に関与し発言していくことが、「言説空間の歪み」を解消していくことに繋がるのではないだろうか。医療界の従来プレイヤーだけに医療を任せる時代ではなくなった。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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