健康は権利か、それとも義務か

RightsOrObligation

今日の朝日新聞朝刊一面トップは「『国民カード』導入検討」である。社会保険庁の年金記録管理不備問題を契機として、年金から医療まで、一気に社会保障を横断的に一元管理する「スーパーカード」が浮上してきた。

医療では、厚労省によって春先から「健康ITカード」構想などの観測気球が上がっていた。しかし、さしたる議論もされないまま、年金問題のどさくさに紛れて諸案件を全部「スーパーカード」へぶち込んだというお粗末。社会保険庁の組織文化的退廃を事実として剔抉することが先だろうに、問題を「スーパーカード」へ転じるやりかたはまさに問題の本質を逸らすもの。

この「国民カード」問題のおかげで、むしろ「健康ITカード」が政府の規定方針となってしまったのである。また同時に「新健康フロンティア戦略」なる「国民運動」が一方で起動されている。このブログではこれまで「国家と健康」という視点で、こことかここで、これらの動きを批判的に検討してきた。

「あなたのウエスト・サイズが毎年測られ、そしてあなたの毎年の健康診断データがデータベースに格納されることを想像してもらいたい。ビッグブラザーがあなたを常に監視し、何を食べるべきか、そしてどの程度の量が限界を超えるかを指示する。これはジョージ・オーウェルの小説ではない。日本の医療改革2008の主要部分なのだ。」

という論文が”International Journal of Integrated Care.5 February 2007″で発表され、春先に米国のブロゴスフィアで話題になった。原題は”Is health a right or an obligation?”であり、著者は日本の国立保健医療科学院に所属する研究員である。

「慢性疾患のコストをうまくコントロールする目的で、ディジーズ・マネジメント・プログラムは様々な国においてよく知られる重要な行動課題となった。だが、日本の改革計画は度を超しているのかも知れないし、『健康は権利なのか、それとも義務なのか』という国民的議論さえ起こしかねないのである。2006年6月に国会を通過した改革法案によれば、医療保険者は、2008年4月から、全ての40歳-74歳の被保険者に向け毎年健康診断の実施が求められ、メタボリックシンドロームのリスクが発見された者には、不健康なライフスタイルを変え、病気を良くコントロールするためのガイドラインを与えることが要求される。」

だが、ここで書かれているような「健康は権利なのか、それとも義務なのか」という「国民的議論」は、現実には日本で今日に至るまで起きてはいないのである。のみならず、わが国の野党やジャーナリズムなどの批判勢力も、一向にこの問題を取り上げるそぶりも見せていないのが不思議である。

健康ITカードや新健康フロンティア戦略などは、結局、「義務としての健康」を国民に課すための方策ではないのか。そして「健康が義務化される」という発想が、「国民運動」などと「新健康フロンティア戦略賢人会議」サイトのトップページに書かれてあるような前時代的言辞を呼び出すのだ。だが、本来、国民にとって健康とは「権利」であったはずである。それが、どこでどのような理由で「義務」に化けたのかが問題なのだ。そして、このような「健康の義務化」が、なんの疑いもなく社会に浸透することに強い違和感がある。

今日、この国の医療政策は「医療費削減」を至上命題として動いている。メタボリックシンドロームがやり玉に挙げられるのも、それが医療費高騰の大きな要因であるかのようにクローズアップされているからである。さらに、まるでメタボリックシンドロームが個人的責任であり、それを矯正し改善することが個人の国家に対する義務であるような風潮があるとしたら、それはかなり極端な医療政策だと考え直すべきだろう。また本当に「コスト削減」をめざすのなら、大規模な健康診断の実施コストや、今後実施されると予告されている「国民運動」のための大規模キャンペーンコストや、健康ITカードのシステム構築・運用コストをどう考えるのか。また、「予防」へと政策シフトを行うとして、そのコスト削減効果のエビデンスは十分に説明できるのか。

また、「メタボリックをはじめ慢性疾患患者には、今後、高い医療費を負担してもらおう」などという意見もあるようだが、これなど「義務不履行者に対する罰則」のような発想であり、嫌な気分になってくる。しかし、無条件に「義務」を前提とする限り、このような意見も出てくるだろう。

日本の場合、「公と私」というわかりやすい単純二元論が、もともとまかり通る社会であるらしい。そして「権利と義務」を考えると、明らかに権利は「私」に、義務は「公」に対応する。だが、「滅私奉公」ではないが、結局、日本では「私-権利」よりも「公-義務」のほうが強力で説得力を持つらしい。だから日本では、「健康とは義務である」という極端な政策が、疑問も付されずに受容されてしまうのだ。

ところで、「医療はパブリックスフィアに位置づけられる」と当方は考えている。だが、このパブリックとは「公」のことではない。「公」でもなく「私」でもない。両者に属さない「第3の空間」がパブリックスフィアである。最近、あるブログでパブリックに関して、「公が私に浸食される」などという議論を目にしたが、これでは従来の二元論に過ぎないではないか。まず、公私二元論の陥穽からパブリックを救い出さねばならないのだ。

もともとパブリックとは日本語にない概念である。あえて「公共」と訳すと、これは「公共事業」などの良からぬイメージに混同される可能性もあり、本当はよろしくない。だがパブリックということの理解の難しさよりも、日本では「私-権利」系が「公-義務」系に常に負けてしまうという現実をまず何とかしなければ、いつまでたってもパブリックにまで到達することは無いかも知れない。

photo by 4x4jeepchick

Leaves

三宅 啓  INITIATIVE INC.


健康は権利か、それとも義務か” への1件のコメント

  1. 健康の義務づけ化は健康診断の結果が悪いと罰則に近いものが、かかるとか、公的医療保険の保険料が罰則的に高くなるとかの行き過ぎた制度にならない限り、国民の健康度が向上するのは医療費の節約なんて意味だけでなく喜ばしいことではないか!
    それをわずかの検診の行政機関に対する義務化を個人に対する受診の義務化と勘違いしたり、社会保障カードの案についてプライバシー侵害の危険を過剰に唱えたりするのはやめてもらいたい。病歴・収入などは他人に知られたくないプライバシーとして要注意かも知れぬが、税収の公平・公正のためには米国、韓国、英、独、北欧などのように納税者番号を社会保障番号と共通のものとして導入すべきである。

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