闘病記とソーシャルメディア

undoukai
ここ2-3年の間に、UGC(User Generated Content)あるいはUGM(User Generated Media)などの言葉が盛んに使われるようになりましたが、様々な議論を経て、どうやらそれらは「ソーシャルメディア」という言葉に徐々に収斂して行きつつあるかに見えます。

まだインターネットがない頃、毎朝私達は新聞を読みTVニュースを見て、世界、社会、そして地域で一体何が起こっているかを常に知ろうと心がけていました。そして印象に残ったニュースについての考えや感想を、職場や学校で同僚や友人と語り合い、意見交換したりしていました。学者、評論家、キャスターといったマスコミに登場する人々が述べる意見や解説を参考にしたり、あるときはそのまま鵜呑みにしたりして、世界で起こっている出来事に対し、その都度、自分なりの「反応」を返し、消極的ではあれ態度形成をしていたわけです。放送局や新聞社など「情報センター(中央)」から送られてくる情報にどちらかといえば受動的に。

つまりこのような「刺激-反応モデル」が世界的に構築されており、「情報社会」という場合も、これら「中央-末端」という見晴らしの良いシンプルな構造を前提にして語られていたに過ぎません。今日、「コマンド&コントロール」と呼ばれるのは、このような時代の情報社会に対し有効な技術であり発想でした。

そしてこれら情報社会の構造がインターネット、特にWeb2.0以降になると根底的に崩れていきつつあることは、既にたくさんの人が指摘していることです。とうとう私達は「ソーシャルメディア」と呼ぶべきものまで手に入れたのですが、それが実は「個人によるメディア」であるところが面白いところだと思われます。「ソーシャル=社会」というと、どちらかといえば「個人」とは対極にあるような、人間集合の全体性をあらわすようなイメージを色濃く持つ概念です。それはたとえば「社会 対 個人」のような対立概念として図式化されていたはずです。

「ソーシャルメディア」という新しい考え方の中に、本来対立的に捉えられていた二つのことが、なぜあたかも齟齬なく同居していられるのか。このことを考えると、一つの言説を想起してしまいます。それは「人間とは社会的関係の総体である」という言葉です。この言葉における「関係」は、今日、「ネットワーク」のことなのでしょう。

つまりネットワーク化されることによって、個人は社会的存在となる。個人のメディアは社会的メディアとなる。多少、牽強付会の気はありますが、そのように考えると「ソーシャルメディア」という言葉も腑に落ちます。そしてこのソーシャルメディアは、またある意味で、人間にとって新しい学習環境であり学習ツールであると言えるのではないかと思います。

今日、毎朝、私達はブログを読み、フィード・リーダーでニュースをチェックし、SBMを見て世の中で何が起きているか、どのような考えが提起されたかを知ろうと努めています。必要な情報にはSBMを付けタグを貼り整理し、コメントやTBで反応します。その過程で自分が考えたことを、今度は自分のブログに上げます。これら一連のプロセスを毎日繰り返すことによって、私達はネットで社会的に相互学習し、相互に影響を与えながら、知的活動領域を広げているといえるでしょう。

実は患者、闘病者がWeb闘病記を書くモチーフの中には、このような相互学習への欲求が含まれているのではないかと、それもその割合は大きいのではないかと、私はひそかに考えています。ソーシャルメディアという言葉は、闘病記が単に特定の「患者」の個人的な体験で自己完結するのではなく、闘病者が社会的に相互学習していく、そのような可能性を開いている言葉なのです。 私達の「TOBYO」は、この可能性を現実のものにするような、そんなツールを目指していきます。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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