闘病ドキュメントはアウトカムデータである

石神井公園、夏

石神井公園、夏

今朝、新宿御苑の蝉が鳴いた。今年はじめて聞く蝉だ。いきなり切って捨てるように梅雨が終わり、また夏がめぐってきた。季節の変り目のせいもあるのか、ここ数日、痛風で自宅蟄居。やっと回復して見上げる夏空が眩しい。

先月から、PRO(Patient-Reported Outcomes)のことを引き続き思案してきた。調べてみると、すでに2001年ごろから、このPROという言葉は米国で使われていたようだ。不覚にも、この間ずっと患者体験ドキュメントについてこのブログで検討しながら、当方、今日までこんな言葉があるとは思いもつかなかったのである。自分の狭量ぶりというものを、思い知らされた次第である。

だが、「アウトカム」という言葉には、何か懐かしい響きが聞き取れる。医療を事業テーマに決めた時分、まず医療評価の基礎から勉強をはじめたのだが、最初に注意を惹いた言葉がこの「アウトカム」だった。無論、「ストラクチャー、プロセス、アウトカム」というドナベディアン・モデルから教えられたのだが、すでにJCAHOやHCAHPSが稼働し、社会にアウトカム・データを公開していた米国とは違い、日本ではようやく医療機能評価機構による「ストラクチャー、プロセス」評価が開始されたばかりあった。それでもアウトカムは、最も患者が求める情報でありながら、日本では公開される気配はまるでなかった。だから自然、「医療アウトカムをどのように評価し、どのように公開するか」ということが、初期の私たちの大きな関心事であり事業テーマになったのだ。

そこで、そのテーマを具体的な事業へ落とし込むために私たちが選択したのは、患者満足度調査であり、その最新理論であったピッカー研究所(当時)が提唱する「Patient Experience Survey」(患者経験調査)であった。なぜなら当時でさえ、患者満足度調査や患者経験調査の調査結果はアウトカムデータとみなされていたからだ。

病院ごとの治療や手術の成功率、失敗率、死亡率などアウトカムデータは、米国ではかなり前から一般公開されていたのだが、日本で公開される可能性は微塵もなかったのである。これは今に至るも変わっていない。今にして思えば、端的に言ってこの原因は、日本のマスコミの怠慢である。米国では特に新聞社が、ニューヨークタイムズをはじめローカル紙に至るまで、1980年代から独自調査による地元病院のアウトカムデータを集め公開し始めており、注目度の高い記事として新聞社の売り物になっていたのである。対して日本ではこのようなマスコミの取材努力は皆無であり、読者への情報提供サービスと取材競争の差が、今日の米国と日本の医療アウトカムデータ公開の格差を生み出したといえよう。

日本のマスメディアは新聞もテレビも、医療過誤などセンセーショナルな事件には敏感で、一般的に医療業界に批判的な論調を張りがちだが、アウトカムデータの取材と公開というような、地味ではあるが読者が本当に知りたがっている情報の提供という点では、まるで努力も競争もしてこなかったのである。その結果として、米国と日本の今日の医療情報格差が存在している。

本論に戻るが、アウトカムデータの収集と公開を患者満足度調査によって実現しようとの当初の目論見は、結果として達成されなかったのである。この原因にはここでは立ち入らない。そして、ウェブ上の患者体験ドキュメントの共有というコンセプトの下、TOBYOプロジェクトが起動されることになった。その後、私たちはその「闘病ドキュメント」の性格と位置づけをめぐり、あらゆる視点から考察を続けてきている。振り返れば、当初それはまず、旧来の「闘病記」と同一視するような見方を批判するところから開始された。「ウェブ闘病ドキュメント」の新しさと独自性を明確にするためには、旧来の「闘病記」の枠内に祭り上げるような発想は否定されなければならないと思ったからだ。ウェブが医療においても、従前の古い概念を切断し、新しい状況を形成しつつあることを明確にすべきだと思ったからだ。

そして次に、ウェブ闘病ドキュメントを「物語」一般に解消し、そこから固有名詞を消し去ることによって、患者体験の事実性や具体性を隠ぺいするような動きにも反発した。たとえ仮に闘病ドキュメントが「物語」という形式を持つとしても、患者にすればそれは他の形式で表出しようがないからであり、そのような表出形式だけに着目することは、そこに記録された豊かな事実や感情集積の価値を軽んじることになると思えたからだ。また、たとえばブログに表出されたウェブ闘病ドキュメントは、外部から閉じられ自己完結した「物語」では決してないだろう。その生成過程に他者が自由に出入りできるような、オープンな相互コミュニケーションの場という性格を持っていることを想起すれば、これを軽々に「物語」とは呼んでほしくない。

さらに、よく「エビデンスとナラティブ」という対の言い方を目にするが、そこには「エビデンス=客観事実、アウトカム」、「ナラティブ=主観事実、物語」という図式が見て取れる。だが、このような「客観>主観」論自体を想定すること自体がまちがいなのである。「アウトカム」という観点からこの「エビデンスとナラティブ」図式を見るならば、今日、アウトカムはエビデンスのみに属するのではなく、「ナラティブ」とされる患者の主観事実まで含む概念になっている。そのことは、上述した「患者満足度調査データはアウトカムデータである」を思い出してもらえれば明白である。患者満足度とは、あくまで患者の主観的滿足を計測したものであるからだ。

だが皮肉にも、「客観と主観」という対立図式をよく考えてみると、たしかに当方もかつて患者満足度調査に患者経験調査を対置することで、後者における客観性の優越を主張したことがあった。それがグルッとめぐり巡って、現在は「患者の主観性」に重きを置くべきだと考えるに至っている。なぜなら、およそ人間が表出する事々は、すべて主観的表出以外にありえないからだ。それは医療者であっても同様であり、まったき客観性とは計測値や図像の記録のほかにはない。患者が体験する疼痛をはじめとする症状の訴えも、すべて主観的な言葉の表出である。そして、そのような「主観的事実」が患者にとっての事実なのであり、その主観的事実の結果がまさにアウトカムなのだ。だから、患者ドキュメントは「エビデンス」との相補的対比で位置づけてはならず、独立したアウトカムデータとして扱うべきなのだ。

もとより人間は、自らの主観を離れ、ひとり客観に座を占めることはできない。客観とは、人間の外部にある計測機器がはじき出す数値や、イメージング・デバイスが描出する画像に存するのである。さらに言えば、闘病ドキュメントを「物語」と言ってしまえば、その先はない。だが、それをアウトカムと受け止めれば、それを統計し分析し、インサイトを導出し、医療にフィードバックし、よりよい医療を創ることができるのではないだろうか。PROというものも、このような考え方に立脚している。ブログなどに患者が自発的に書き出した闘病ドキュメントは、患者にしか知りようがない主観的事実の記録であり、まさに「患者報告アウトカム」データとして正当に評価しなければならないのだ。

(付記)患者はブログで闘病ドキュメントを書く際、決して誰も「物語を書こう」とは考えていないだろう。そもそも、ブログを書くという行為は果たして「物語」を書くことなのだろうか。もしあなたがブロガーなら考えて貰いたい。

あなたは物語を書いているのですか?

三宅 啓  INITYIATIVE INC.


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