コトの顛末

先日、ある団体から闘病記に関するシンポジウムの講師を依頼された。その開催要項らしきものを見たがさっぱり要領を得ず、意を尽くした文面も整えられておらず、主催者さえ明記されていないことにも辟易し、勝手にノミネートするその無礼さに不快感もつのり、そのまま無視しておいたのだ。そして昨日、またもやその団体から講師依頼メールが再送されてきたのであるが、今日、丁重にお断りのメールを返信しておいた。やれやれである。

このシンポジウムは厚生科研費のついた研究会活動の一環であるらしいが、とにかく当事者たちの問題意識が低く浅すぎるのではないか。仮題「闘病記の提供方法を考える」とのテーマで、四時間も一体何を議論するのか。このテーマ、字句通り受け取れば単純に「提供方法はネットや書籍など多様である」という話で終わりである。貴重な時間資源をなんと心得ているのか。

また「闘病記の提供方法を考える」のは闘病者自身であり、それ以外の誰でもないはずだ。この「仮題」設定の陰には「闘病記を提供する闘病者以外の何者か」が仮構されているはずだが、一億総表現者化(「ウェブ進化論」)の今日、闘病者以外の提供者、たとえば「専門家」や「編集者」を想定すること自体が時代錯誤なのだ。闘病記は闘病者自身が直接提供する。闘病者に代わって、「洗練された専門的かつ学術的手法」とやらを使って闘病体験ビデオを提供するなどという発想が、もはや救いがたく時代に逆行するものなのだ。この研究会やビデオ代行アップ団体は、現在ネットで進行している知識と情報の革命について、何の認識も持っていないのか。「ウェブ進化論」を百回は熟読玩味のうえ出直してくれ。

また昨日送られてきたメールによれば、当日、シンポジウムに先立って「文学と闘病記」なる講演が予定されているそうだ。この演題を見てとっさに思い出したのは、かつて吉本隆明が「反核異論」で言い放った「原爆文学というものはない」という言葉だ。被爆者の手記を「原爆文学」と称揚しようとする人たちに対し、吉本はそれが文学かどうかではなく、「原爆文学というものはない」と断言したのである。いずれ「闘病文学」などと言う輩が登場する可能性もあるので、この際吉本の言葉を借りて言っておくが、「闘病文学などというものはない」のだ。

闘病記は、闘病者の実践的な知識と体験のドキュメントである。これら実践的な知識は、個々人の分散した断片的知識であり、不確かさを持った知識であるが、それらを比較対照し取捨選択することによって、実践的な知識として社会的に活用されるものである。そしてTOBYOは、その際のツールとして利用されることを目指している。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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