1984と1Q84

1984_1Q84

6月4日、東京・青山で開催された第一回Health2.0 Tokyo Chapterの事例紹介プレゼン冒頭で、株式会社メディエイドの杉山社長が紹介されたのは、1984年スーパーボウルでオンエアされた伝説のAppleマッキントッシュ・デビューCMであった。ずいぶん久しぶりにこのCMを見たのだが、リドリー・スコットのスタイリッシュな映像は、今日でもまだ十分なインパクトを持つことを確認できた。

このCMは、誰にでも直感的に操作できるGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)のパーソナル・コンピュータ時代の到来を告げている。それまでコンピュータといえば国家や巨大企業のみが独占する権力の装置であったが、パーソナル・コンピュータはまさに「個のエンパワーメント」のためのツールであり、その意味では従来の医療システムに対してHealth2.0が台頭する今日のシーンと通底するものがある。そのようなシンボリックな意味合いを、杉山社長はプレゼンで伝えようとされたのだろう。

ジョージ・オーウェル「1984」をベースに制作されたこのCMを今日改めて見直すと、様々なイメージ、言説、事実が複合的に想起されるのを強く感じた。それは、まずこのCMで大スクリーンに大きく映された「ビッグ・ブラザー」についてである。昨年来、iPhoneアプリをめぐるApple側の統制に対する批判が高まっており、中には「ビッグ・ブラザーはスティーブ・ジョブズだ」という声まであがっている。当時この大胆なCMを主導したのはスティーブ・ジョブズ自身であったが、四半世紀が経過して、彼自身をビッグ・ブラザーと見なす言説が出てくるとは皮肉である。

また1984年以降の情報社会の急進展によって、ビッグ・ブラザー的な権力のあり方はリアリティを失うことになる。東浩紀は「情報自由論、第2回、工学と政治が短絡してしまう世界」(『中央公論』2002年8月号) においてビッグ・ブラザーではなく「リトル・ブラザー」的な分散・偏在する権力の存在を指摘している。

遍在するリトル・ブラザー

理由の第一は、そこで立ち上がりつつある新たな権力が「遍在化」「分散化」し、国家対市民という図式では批判できないということである。情報化=セキュリティ化時代の権力は、国家という能動的な存在が市民という受動的な存在を監視し抑圧する、という単純な枠組みで捉えることができない。むしろそこで必要とされるのは、国家と市民、政府と民間企業、公的領域と私的領域の差異が溶解した空間のなかで、万人が万人を監視し、情報を収集しあうような新たな枠組みである。(前掲「情報自由論」)

またこの「リトル・ブラザー」は、村上春樹「1Q84」における「リトル・ピープル」を連想させるのだが、

1984年MacデビューCM → ジョージ・オーウェル『1984』 → 東浩紀『情報自由論』→ 村上春樹『1Q84』

みたいな、一連の想起集合セットを思い浮かべてしまったのである。「1984」はそのように不思議なイメージ喚起力を持ち、ある時代からある時代へとクロス・フェードする分岐点であったのかも知れない。

ところで村上春樹「1Q84」だが、非常に面白く読んだ。「リトル・ピープル」の解釈をめぐってブロゴスフィアでも様々な議論があるようだが、これが「言語化しにくい存在」であり、「善でもなければ悪でもない」ような存在であるところに、なにかリトル・ブラザー的な権力のありかたに近いイメージを持った。

短いパッセージからまとまったエピソードに至る「パーツ」の反復によるリズム、楽曲や文学作品の引用による多声的和音、チャンドラー的な比喩の通奏低音、等々。この作品は、意図的に音楽的な構造を持つ「容器」として作られた作品だと思えてくる。

特に繰り返し出てくる「ソニーとシェール。最強のデュオ。ビート・ゴーズ・オン。」のフレーズには強い親近感を持ち、思わず微笑んでしまった。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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