闘病体験をどう見るか

一般に「闘病記」を語るときに、「勇気をもらえる」とか「元気が出る」などの表現が用いられることが多い。だが、これは本当にそうなのだろうか。何か歯の浮く過剰な美辞麗句に過ぎないような気もする。このブログでは、闘病者生成コンテンツのことを様々に考えてきたが、われわれ健康者の一方的な思い入れに基づき、勝手に「勇気をもらえる」などと言い立てるのとはまったく違う見方で、おそらく闘病者たちはこれらの闘病体験ドキュメントを見ているのではないか。ある種の反省とともに、正直なところ常にそんな気がしていたのである。

最近、ある前立腺がんの闘病者ブログを読んでいると、次のように記されているのを目にした。

昨日の朝日新聞beの記事にもTOBYO,ライフパレット、オンライフなどのサイトに闘病情報が得られるとあり誘惑にかられて早速画面を出したが表紙を見た時点で詳しく中を見るのは怖くなってすぐ閉じた
辛い苦しい悲観的な情報をみつけたら気の小さい私は当然落ち込む
夜などついつい考え込んでは調べてみたい誘惑にかられるが
朝になるとその気は失せる
それを知ったからといって病状が変わる訳ではないだろうから
家族が気を使って慰めにいい情報だけを伝えてくれるのは有難い
落ち込んだところでいいことはないがそれでも最悪の結果を覚悟し容認しようと努めている、今後の展開にそなえて心の準備が必要だ
この先、治療方法がはっきりしたら情報検索するかもしれない
段階的に気持ちは変わるのだろうと思う
情報社会で情報を避けるのもおかしなものだ

        「前立腺がん闘病記-4 」(「一言孤児」

これを読んで「なるほどなぁ」と思った。健康者のわれわれが「闘病記から勇気がもらえる」などと能天気にもてはやすのとは逆に、この闘病者のように「辛い苦しい悲観的な情報をみつけたら気の小さい私は当然落ち込む」と考えたり、「なるべく悲惨な事例は知りたくない」と考える人も確かに存在するはずなのだ。このような人たちに、ではどのように闘病体験情報を提供すればよいのだろうか。

こんなことを考えていると、半年ほど前に読んだ別の闘病者ブログのことが思い出された。その闘病者はある難病を患っていたのだが、医師からいくつか治療方法を提示されており、その中から一つを選択しなければならないという状態にあった。その闘病者がその際に取った行動は驚くべきものであった。医師から提示された複数の治療方法について、ネット上の闘病体験を徹底的に情報収集し、自分と似たケースでどの治療方法がどのような結果をもたらしたかを数値化し、統計的に分析を加え、最も成功確率の高い治療方法を選択したのである。これを読んで「なるほど、『事実としての闘病体験』にはこのような合理的活用方法があるのか」と教えられたのである。ついでながら、「TOBYOをやっていてよかった」と思った瞬間でもあった。

このように他人の闘病体験に対する闘病者の視点というものは、われわれ健康者の一方的な思い込みとは違い、「つらい体験を知って落ち込みたくない」というものから「合理的な医療選択のためのデータが欲しい」というものまで千差万別なのである。サービス開発者はそれらすべてに対応することはむつかしい。どのニーズにフォーカスするかによって、開発されるサービスはそれぞれかなり違ったものになるはずだ。

そのように考えると、TOBYOの場合、やはり「事実としての体験」というところを中心に闘病体験を見ていくことになるのだと思う。同時に、上の前立腺がん闘病者のような人たちに対する配慮ということも宿題になるだろう。いずれにせよ、健康者の一方的で情緒的な美辞麗句では、本当は闘病体験を語ることはできないと思うのだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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