日本医療「焼け野原」論

医療者の側から、医療崩壊という言葉を多数聞くようになったのは、昨年あたりからでしょうか。特に、昨春の福島県立大野病院起訴事件、夏の奈良県大淀病院産科転送事件を契機として、医師ブログや関連掲示板でこの言葉が多用されているのをよく目にしました。たしかに医療行為に対し、警察が短兵急に、見せしめのニュアンスもある逮捕や取調べを強行することに違和感はあり、医療者側の悲憤慷慨も理解できるものでした。

リテラシー

( Leigh Blackall , What we need )

それが最近になって、とうとう「日本医療焼け野原」論まで持ち出されてきています。そこで語られているのは、このままでは日本医療は焼け野原状態となり、地域医療の崩壊、医師の臨床現場からの逃散など、大規模な医療リソースの損壊を招くことになるだろうという悲観論です。そして、そのカタストロフィ到来の是非ではなく、それが来るべくして来るものだとの前提に立ち、その上で、その後の「復興」がどのように可能かという点に議論は移っているように見えます。

「焼け野原」の第一の戦犯として、表層的なセンセーショナリズムで世論を誤誘導するマスコミが異口同音に上げられていますが、さらに、そのマスコミに踊らされ「権利ばかり主張する国民」も暗に批判されているようです。掲示板では医療者側と生活者側がやりあうシーンさえも見られます。

前のエントリーでも書きましたが、もちろん生活者と医療者が反目するのは双方にとって不幸な事態です。たしかに国民皆保険制度の中で見えにくくなっていた「医療資源の有限性」が、ここ10年くらいの間に、だんだんとその輪郭を明瞭に見せ始めたという背景があると思います。「いつでも、どこでも、保険証一枚で、好きな病院で、安く受療できる」という状態が長く続き、まるで無尽蔵の医療資源がこの国に存在するかのように見えたとしても不思議ではないでしょう。そして無尽蔵ではない有限資源なのに、「そのことは見たくない」、「一応、表向きだけでもカモフラージュしておけ」みたいに、「今そこにある危機」を「みんなで見ないことにしておこう」とやってきたツケがとうとう限界まで来たということでしょうか。

医師の間における「焼け野原」到来に対する態度は、積極的阻止論から消極的静観論まであるとのことですが、何か割り切れない感じがします。一方の側の国民の根深い医療不信が、いったいどの時期からどのような背景を持ってこの社会に現れたのか。もちろんマスコミ側の扇情報道があり、そのマスコミに今回の納豆事件のように盲従した国民の問題もあったでしょう。しかし、これだけ広範囲でしかも根深い医療不信の存在は、これらで簡単に説明できるものでしょうか。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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