医療不信と闘病記

「21世紀のいま、日本人の医療に対する不満や不信感は、かつてなく高くなっています。医療に対する国民の不信ぶりは、他の先進国と比べても顕著です。」(「大学病院革命」黒川清、日経BP社)

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ではなぜ医療に対する不信が顕著になったのか。医療界からは「マスコミのセンセーショナリズム報道のせいである」という声が数多く聞こえてきます。確かにこの間、医療事故に関する報道を見ると、ある偏った医療観によって事実が脚色されていると感じられるものが少なくありませんでした。しかしそのマスコミの医療観の背後には、生活者側の医療不信の存在があります。広く社会的に不信感が蓄積共有されているがゆえに、マスコミ側がその「不信の文脈」を察知し、それに立脚迎合するような報道がされる。そのことによって更に医療不信は高まって行く。このような不信の拡大再生産プロセスが、いつのまにやら日本社会に根付いてしまったかのようです。

つまりマスコミの報道だけが医療不信の原因ではなく、生活者側にマスコミ報道と共振する「心情」があることの方が問題なのかもしれません。

闘病記を読むと、闘病者側の医療に対する強い不信感、さらには怒りまでが表明されているのを多く目にします。「医師の心無い言葉に傷ついた」、「医師の冷淡で高慢な態度」、「患者ニーズを無視された」、「セカンドオピニオンを求めると嫌味を言われた」等々、医療者とのコミュニケーションに問題があり不信が芽生えるケースが頻発しています。また提供される医療の質自体に問題があり、「誤診を受けた」、「何度も病院を変えて、やっとまともに病名を告知された」などの声も闘病記に多く見られます。医療不信の芽は、医療現場にあるのです。

一般に難しい病気で重篤な患者ほど、次々に病院を転院し、「さまざまな病院遍歴の末に、ようやく自分に合った医療を見つけることができた」というストーリーの闘病記が多いのです。「闘病記は病院遍歴、医師遍歴の記録である」という見方さえできます。そしてその遍歴の過程で比較体験された様々なエピソードは、当然、病院にとって良い話もあれば悪い話もありますが、概して医療機関に対して批判的なまなざしを向けています。これを「患者のわがまま」と切って捨てるか、「医療の質を改善する貴重な資料」と見るかによって、この患者体験記録の価値は180度変わってきます。

数年前から日本でも患者満足度調査が実施されるようになって来ました。日本医療機能評価機構の病院審査でも、満足度調査実施の有無が評価項目に入れられています。患者視点で医療の質を評価し、現状水準と問題点を医療現場にフィードバックし改善サイクルに繋げる。このような業務の品質管理が進められていますが、これは患者ニーズとその充足度をデータで把握し改善することによって、患者の不満や不信感をなくしていこうとする試みと見ることもできます。ただし、このような数量的な統計調査で常に問題となるのは、患者の不定形な心理的要因のインサイト(洞察)が難しいことです。この点で闘病記は患者ニーズの定性情報として有用です。そこには実際に患者が体験した事実に即して、患者が思ったこと感じたことが率直に記されているからです。

医療不信を解く一つのアプローチとして、医療者側が闘病記を読み、闘病者の目線で医療現場をチェックし改善に繋げる、そんな方法もあるかもしれません。闘病記は、患者視点を通じ、実際に体験された生きた医療情報なのです。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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