夏の終わりに

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暦は立秋を過ぎた。昼休みに、新宿御苑プロムナードの小川に涼を求め散歩する毎日だが、ギラギラした日差しを遮る木陰には、もう秋の気配がそこここに佇み、夏の終わりが始まった。いつまでも夏が永遠に続くことはないのだと、当たり前のことを言ってみる。

この暑い夏、仕事を続けながらいくつかの「終わり」を見届けた。その中のひとつは音楽評論家中村とうよう氏の死である。衝撃的な氏の自殺の報に接し、あれこれ言葉にならない想いが胸をよぎったが、しばらく経って考えをまとめてみると、あんなにも栄華をきわめた20世紀の音楽産業や音楽業界が、どうやらこれで本当に終わってしまったという感想に行き着いた。ちょうど一年前の今野雄二氏の自殺に続き、20世紀後半に活躍した有力な音楽評論家が相次いでこの世を去ったが、もちろんそれぞれに個人的理由はあろうが、ここ数年の世界的な音楽業界の崩壊と無関係ではないように思えたのだ。

今更言うまでもなく、ダウンロードというパッケージ抜きのフローチャネルの台頭にともない、商品とそれに付随する情報の流通はネット上へ移動し、従来の音楽業界や音楽ジャーナリズムは致命的な打撃を被った。音楽メジャー各社は赤字転落し、大規模ショップは閉店し、音楽雑誌は次々に廃刊した。中でも象徴的なのは、音楽評論家やライターなど「専門家」による音楽作品の序列づけが力を失い、ネットによってすべての作品が水平に置かれ、ブログやコミュニティを通して情報交換されることが一般化したことである。

作品の「価値」を決めるのは有名評論家(巨匠)ではなく、権威あるメジャー音楽雑誌でもなく、あくまでユーザー自らの好みと判断に委ねられたのである。また作品とミュージシャンに関する情報も、「専門家」だけが特権的に語る時代は去り、誰でもネットで検索をかければ膨大な情報を入手でき、自由にそれを引用しコメントすることが可能になった。

しかし、そのジャンルにおける「目利き」が存在しないことを手放しで礼賛できるかといえば、話はそんなに単純なことでもないだろう。今後も「目利き」はそれぞれの分野に必要だろう。だが、以前のように全面的に少数の「目利き」に依存する時代は終わったのだ。もとより自分が聴く作品を、評論家先生のレビューで決めてもらう必要はない。

「少数の目利き」による「巨匠の時代」は去り、いわば「多数の目利き」達の多声的な集合評価を参照する時代になったのだ。伽藍は崩壊し、バザールが開かれたのだ。では逆説的に「このような時代に『評論』は可能か?」と問われるとどうだろう。確かにそれは可能だろうが、しかし、そのスタイルを変えなければならないのではないか。

日本の音楽評論、映画評論、美術評論、その他もろもろの芸術評論の祖型は、おそらく文芸評論によって作られたと考えてまちがいない。端的に言ってそれは小林秀雄だ。だが、そろそろ文芸評論の言説スタイルで、音楽や映画や美術を語るのをやめてはどうか。言葉で音楽や美術を引用できるという、そんな傲慢な思い込みから自由になり、新しいスタイルを開発できなければ、「評論」と「評論家」はますます閉塞状況に立ち至るだろう。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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