立川幸治教授とイマヌエル・カント

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今月の初め名古屋へ出張し、名古屋大学医学部の立川幸治教授を訪ねた。立川先生とはこれまで何回かメールのやり取りがあり、そのユーモアあふれるメールを拝見して「おもしろい方だな。ぜひお会いしたいな」という思いがまずあり、また、かつて歴戦練磨のベンチャー経営者としての経歴もお持ちの方であり、とうとうこちらから名古屋まで押しかけて研究室までお邪魔した次第である。

研究室のソファに座るといきなり質問の矢が飛んできて、それから時間があっというまに過ぎた。TOBYOや医療ベンチャーに関して、またご専門の事業経営論など、非常に中身の濃い充実した意見交換をさせていただいたが、その中で立川先生が述べられたいくつかの言葉がいまだに頭を離れない。まず一番感銘を受けたのは次の言葉だ。

「人はリソースではない」

企業経営を考える場合、一般に「人、モノ、金」が基本的な経営資源であると言われているが、立川先生のこの言葉は、これら通俗的な「経営資源」観を再考させるものだと思う。ビジネスの現場では、日常的に「人的リソースが・・・」などと言ってしまうことが多いのだが、立ち止まってよく考えてみると、なるほど人を「モノ、金」と同列に扱うのはたしかにおかしい。しかし、だからと言って、人のリソース的側面を否定してしまえば、はたして「経営」という観点は成立するのだろうか。一方では、そのような疑問も立ちあがる。

名古屋を訪問して以来、立川先生の言葉の意味を考えてきたのであるが、その後、意外なところからこの言葉を理解するヒントが得られた。「人はリソースではない」という言葉は、「人は、何かを実現するための手段ではない」と言い換えることができるだろう。このように、人をたんなる「手段」として見ることを最初に禁じたのはカントである。

「あらゆる人格を目的として扱い、決してたんなる手段として取り扱うことのないように行為せよ」

これはカントの「実践理性批判」における「定言命法第二式」と呼ばれるものであるが、これについて柄谷行人は次のように述べている。

「カントにとって、道徳性とは善悪の問題ではない。自由の問題です。そして、自由というのは、自発性という意味です。たとえば、カントは道徳法則としてこういうことをいっている。「他人をたんに手段としてのみならず、同時に目的として扱え」と。目的として扱え、というのは、自由な(自発的な)存在として扱え、という意味です。われわれは互いに、他人を手段としている。それはやむをえない。しかし、他人を手段として”のみ”扱うことがあってはならない、というわけです。同時に、相手を目的(自由な存在)としてあつかうのでなければならない。」(「柄谷行人 政治を語る」,P72,図書新聞)

では、経営にとって「人を、単なる手段としてではなく、同時に目的として扱う」とは、どのようなことを意味するのだろうか。もしも、これをただ倫理的な方向へと展開してしまうならば、たとえば「人間的経営」など、きわめて通俗的で観念的な「経営論」へ帰結するだけに終わるだろう。そうではなく、具体的なものとしてこの「定言命法第二式」を実現するためには、いったい何が必要なのだろう。そんなことを考えさせられた。

さらに私たちのTOBYOプロジェクトにも、立川先生の言葉からカントの定言命法第二式へ至る考え方は、非常に大きな影響を与えるのではないかと思う。たとえば、これまで闘病ドキュメントあるいは闘病記というものを、私たちは、ともすれば「リソース」として、さらにまた「手段」として見ていたのではないか。そこにおける「目的」は、後に続く闘病者達に役立つ情報を提供するというものだが、闘病ドキュメントの作者自体を「目的」として見ることは少なかったのではないか。では作者を「目的」として見た場合、TOBYOは具体的にどのように変わらなければならないのか。このことを「倫理的な反省」としてではなく、実践的課題として取り組むつもりである。

いずれにしても、立川先生には非常に大きな示唆を頂戴した。
この場を借りて御礼いたします。ありがとうございました。先生も是非、ブログを書いてください。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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