ベンチャー的思考とは何か

VentureWay

世間は「大型連休」。天気も良いし、今日の新宿御苑周辺はのどかな空気が流れている。ワインとサンドウィッチをバスケットに入れて持ち出し、御苑の芝生の絨毯の上で広げ、気持ちの良い風に吹かれたいところであるが・・・。ベンチャー企業としては、しかもベータ版公開準備中の身としては、ゴールデンウイークもへちまも関係ない。ひたすら愚直に仕事を進めるのみ。

もとより、ベンチャー企業というビジネス・スタイルをどのように定義しても勝手だが、結局、ある一つの焦点を定めてこだわり、愚直な一点突破をはかることに尽きるのではないかと最近考えてみたりする。最初は、誰しも、新規ビジネスが醸し出すある種のロマンを語ったり描いたりするのだろうが、やがて余分な装飾は剥落していき、ビジネスは「ここを掴むしかない」という裸形の一点に収斂されて行く。つまり、最後に残るただ一つの流儀は「リアリズム」しかないはずなのだ。

だが、そうは言っても、ロマンチシズムと対置され、ロマンチシズムと常にペアを成すような「リアリズム」からは、距離を置く必要があるのかも知れない。「現実」に居直ってしまうような「リアリズム」では、ベンチャー企業を起こすことはできないし、そもそもその必要もないからだ。つまり、「ロマン&リアル」という両極から覚醒していなければならない。そして、このようなサスペンディドな状態に身を置き、持続的に耐えることが、ベンチャービジネスには課せられているのだ。

われわれはビジネスをやる以上、能天気なロマンチストでも、また頑迷固陋なリアリストでもない。両者の誘惑から常に覚醒するためには、一定以上の強度を持つ「愚直さ」を自覚的に獲得しなければならない。

たまたま、大澤真幸「不可能性の時代」(岩波新書)の冒頭部分を読んで、ある違和感を持つと同時に、このような思いを強く持った。この本の冒頭には、社会学者である見田宗助氏の戦後史分析が紹介されている。それによれば日本の「戦後」は、現実に対置されるべき「反現実」として、「理想、夢、虚構」という三段階を進んできており、1945年から1990年まで、それぞれ約15年づつの時代として区分されるというものである。

もちろんこの「戦後史モデル」の背後には、現実(保守派)と反現実(進歩派)という、決まり切った図式があるのだが、このような二元論を未だにナイーブに抱いていること自体への、当方の違和感は強かった。と同時に、ともすればビジネスの世界において、これに似たような二元論をもってコトを単純化することから、われわれは本当に自由であるだろうか、との自省の念にも駆られたのだ。

かつて小林秀雄は「菊池寛論」(「作家の顔」収録)で次のように述べている。

「文芸に関してとは限らず、人生どの方面にも保守派と進歩派とがあるものだ。菊池寛は、そのどちらにも与しなかった。ただどちら付かずの曖昧な立場に立ったのではない。保守派も革新派も、実人生の見えないロマンチストに過ぎぬと、はっきり考えた人なのだ。保守派は、現実の習慣のうちに安んじて眠っている。進歩派は、理論のうちに夢見ている。眠っているものと、夢見ているものとは、幾らでもいるが、覚めている人は少ない。人生は動いて止まぬ。その微妙な動きに即して感じ考え行う人は、まことに稀である。」

ベンチャーを志すわれわれは、「眠っているもの」でも「夢見ているもの」でもなく、「覚めているもの」へと進まなければならない。ただ愚直に「感じ、考え、行う」べく進むのだ。


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