患者の主張を「代表的な文」で提示する

ハーセプチンの構文解析

一昨日、母が他界した。11月26日の夕刻、母は誤嚥性肺炎で発作を起こし、病院へ救急搬送され集中治療を受けた。だが、わずか一日で症状は急激に悪化し、一昨日夕刻に亡くなった。医師からは腸閉塞、回盲部腫瑠、肝転移、認知症等も指摘された。救急搬送に際して、運良く短時間で病院の救急外来診察を受けられたものの、空きベッドがなく、他院転送となり不本意な選択を強いられた。この件について言いたいことはあるが、今は触れないでおく。

以前のエントリにも書いたが、9月から当方、新宿から自宅へ仕事拠点を移した。これは母の健康状態悪化が明らかになり、自宅介護をしなければと考えたからだ。しかし、それから三ヶ月が経ち、結局、母を死なせてしまった。この間、夏の終わりから、秋の終わりへと季節は移った。今にして思うが、この三ヶ月は実に長い、そして貴重な時間だった。何か遠い遠い昔にあった出来事のような気もする。晴れの日には石神井公園の美しい景観を、車椅子に母を乗せ、一緒に見つめていた。だが、突然それらの日々は遠景へ退き、もう二度と手の届かない、遠い過去の残像へ変わってしまったのだ。

そしてこの三ヶ月、仕事では、初夏に構想を得た”Perspective for Drugs”の開発に取り組んでいた。これは、ネット上の患者ドキュメントから薬剤体験データをテキストマイニングで抽出し、「患者による薬剤評価」を薬剤アイテムごとに提供するためのサービスである。当初、巷間流布するいわゆる「テキストマイニング・サービス」というものを、さしたる疑念もなく患者ドキュメントに適用していたのだが、やればやるほど違和感というか不足感、あるいは隔靴掻痒感にとらわれた。このいわく言いがたい「何かが足りない」という感触を手がかりに、この三ヶ月、ほとんどあらゆる種類の現存するテキストマイニング手法を試してみた。何度か「よしコレで行けるぞ!」と視界が開けた感触を掴んだものの、やがてその方法の限界点が露わに見えてしまう・・・・。その繰り返しが続いた。

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