なぜ、レガシー調査の調査結果は退屈なのか?

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新宿御苑を散策すると、秋はまだあちこちに残っていた。冬枯れのきざしと秋の名残の深い紅葉が交じり合い、小春日和の中で微妙なハーモニーを奏でていた。歩く影は、ますます長い。

先のエントリで、レガシー調査が回答者に「退屈」を強いるものであることに触れた。そしてその退屈さは、回答者だけが回答プロセスにおいて感じるものではない。それよりも一層深刻なことは、調査結果がそれに輪をかけて退屈であるということだ。「わかりきったこと」をわざわざ調査結果として言い立てることの退屈さと虚しさは、「調査というものはそんなものだ」という諦めにも似たつぶやきによって、なんとか無理やり我慢をしなければならないものであった。

調査結果に、何も新しい知見も驚きも発見もないとしたら、一体、その調査をやる意味とはなんだろう?最初からわかりきったこと、誰もが常識的に予測できたことを、なぜあらためて調査する必要があろうか?

それに対し、「わかりきったことでも、それを調査で検証し確認することに意味がある」というのが従来の決まり文句であり、これはまことに重宝なフレーズであったので、当方などもよく利用したものだ。だが、これもよく考えてみると変な話である。わかりきったことを検証するのはタダではない。時間も費用もかかる。要するに、それらコストを負担してまで「わかりきったこと」を検証することが果たして必要かどうか、ということの検証が欠落しているからだ。 続きを読む