医療選択、意思決定、行動経済学

daniel_cahneman

めっきり寒くなったと思ったら、もう2011年もあと数日を残すのみ。そろそろ来年のことを、あれこれ考えはじめたりしている。前エントリでも書いたが、とにかく今年は、dimensions開発とプロモーションに明け暮れた一年だった。地震もあったが、何か例年にもまして短い一年だったような気がする。

dimensionsだが、すでにシステム運用を開始しており、現在、製薬会社や調査会社の方々に実際にお使いいただいている。当面、ディスティラーにおける対象疾患数とキイワード(固有名詞)件数の増加、そしてX-サーチの検索結果メタデータとフィルタリング項目の追加作業など改善に取組んでいるが、当初めざしていた基本機能は予定通りワークしている。今後は、クロールと集計の定常運用モードに入り、データ件数の拡大と更新の迅速化をめざしていく。

さらに来年へ向け、二つの新規サービスを準備している。あれこれ検討してネーミングも決まった。その一つは、闘病体験を個人ごとにワークシート一枚で時系列集約する「アルマナク」(Almanac)、そして患者体験による医薬品評価サービスの「ボイシズ」(Voices)である。

このようにシステム開発は進んでいるが、同時に、それらを支える理論的フレームもこの一年間に少しづつ固めてきた。特に春先から、ソーシャル・リスニングなど新しいリサーチの考え方をどんどん導入してきたが、それらはやがて徐々に行動経済学へと焦点を結ぶことになった。dimensionsのプレゼンテーションもその主要論点がどんどん変化してきたのだが、この秋頃からだろうか、プレゼンでダニエル・カーネマン(上写真)を引用することが増えてきている。 続きを読む

コスモス、タクシス、そして闘病ユニバース

Keynes_VS_Hayek

先のエントリで「設計主義に基づくレガシー調査の限界」を検討したが、この「設計主義」という言葉は、経済学者ハイエク(Friedrich August von Hayek,1899-1992)の言葉であり、デカルト以降の合理主義の潮流、すなわち近代合理主義を批判する際に用いられる言葉である。人間の理性による合理的思考によって、社会をより目的整合的で合理的な社会に設計しうると考える近代合理主義は、一方では社会主義へ、もう一方ではファシズムへと、悲惨な歴史的帰結を見た。

それにもかかわらず、ある「目的」のもとに、社会や医療制度をはじめ諸制度を設計することを企図する「設計主義」はあとをたたない。「正しい合理的な目的」を社会に向け命令し統制することをめざす「設計主義的合理主義」は、まさに20世紀のコマンド&コントロール型マーケティングのルーツでもあった。

これらに対しハイエクは、市場をはじめとする自生的秩序の能力を高く評価し、個人の理性や合理的判断の限界を説いた。不特定多数の匿名の自生的秩序のほうが、少数の優秀な理性よりも、むしろ能力は高く信頼できるとしたのである。たしかに匿名的な市場の価格調整力のほうが、特定少数の優秀な官僚や学者による価格予測や計算よりも、はるかに問題解決能力が高いことは、すでに社会主義諸国の実態によって証明済みである。テクノクラートやエリートが、どんなに高度な計算力を投入しようと、市場のように需要と供給をバランスさせることは不可能だったのだ。 続きを読む

なぜ、レガシー調査の調査結果は退屈なのか?

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新宿御苑を散策すると、秋はまだあちこちに残っていた。冬枯れのきざしと秋の名残の深い紅葉が交じり合い、小春日和の中で微妙なハーモニーを奏でていた。歩く影は、ますます長い。

先のエントリで、レガシー調査が回答者に「退屈」を強いるものであることに触れた。そしてその退屈さは、回答者だけが回答プロセスにおいて感じるものではない。それよりも一層深刻なことは、調査結果がそれに輪をかけて退屈であるということだ。「わかりきったこと」をわざわざ調査結果として言い立てることの退屈さと虚しさは、「調査というものはそんなものだ」という諦めにも似たつぶやきによって、なんとか無理やり我慢をしなければならないものであった。

調査結果に、何も新しい知見も驚きも発見もないとしたら、一体、その調査をやる意味とはなんだろう?最初からわかりきったこと、誰もが常識的に予測できたことを、なぜあらためて調査する必要があろうか?

それに対し、「わかりきったことでも、それを調査で検証し確認することに意味がある」というのが従来の決まり文句であり、これはまことに重宝なフレーズであったので、当方などもよく利用したものだ。だが、これもよく考えてみると変な話である。わかりきったことを検証するのはタダではない。時間も費用もかかる。要するに、それらコストを負担してまで「わかりきったこと」を検証することが果たして必要かどうか、ということの検証が欠落しているからだ。 続きを読む

マーケティング・リサーチの新展開

Gyoen_Cafe

今月でこのブログは開設してから5年になる。大まかに言ってそのほとんどは、ウェブ闘病ドキュメントの考察を含むTOBYOプロジェクトの思考実験、そしてHealth2.0ムーブメントの動向についての考察に費やしてきたと思う。だが、今年に入っていささかその様相は違ってきている。今年はエントリ数自体が減ってしまったが、以前とは違い、新たにリサーチ・イノベーションについての考察が加わった。

もっぱらTOBYOとHealth2.0ばかりに関心が向いているうちに、マーケティング・リサーチなど社会調査の分野で、ここ数年、非常に大きな変化が起きていたのである。前のエントリで紹介した最近のESOMARなど国際会議では、「デジタル・リサーチ・ルネッサンス」とか「マーケティング・リサーチにとって100年に一度あるかないかの大変革期」とか、非常に高揚感を伴った言葉が踊っている。それらコンファレンスのレポートや関係ブログなどを読むと、あの2005年頃のWeb2.0ムーブメントと同様の熱を帯びた興奮が、最近のマーケティングとマーケティング・リサーチの分野で巻き起こっていることがわかる。

だが、日本は静かだ。異様に静かだ。日本のマーケティングやリサーチは、世界から5年は遅れていると言う人もいる。ソーシャル・リスニングやMROCなどの話題を出しても、従来のレガシー・マーケティング関係者はほとんど関心を示さないばかりか、逆に従来の古色蒼然としたサンプリング理論をはじめ統計理論を振り回し、最早、前世紀で賞味期限切れの反論を試みるばかりだ。 続きを読む

患者との共創(Co-Creation)による医療変革

ESOMAR_3D_Digital_Dimensions_2011

去る10月、米国マイアミで開催されたマーケティング・リサーチの国際会議”ESOMAR 3D Digital Dimensions 2011“において”Co-Creation Research”と題されたワークショップが持たれた。そのキャプションには「消費者を新製品と新サービス開発の共創者(Co-Creators)として理解しよう」というフレーズが掲げられていた。

マーケティング・リサーチは、今、大きな変革期を迎えている。この”ESOMAR 3D”の3Dとは「オンライン、ソーシャルメディア、モバイル」の三つの次元を指しているのだが、リサーチの主たるステージがこれら次元へ移ったというだけではなく、これまで主たる調査対象者であった消費者に対する見方自体も変わってきている。受動的に製品とサービスを受け取る、単なる調査対象とか被験者というものから、一緒にアイデアを生み出し、製品とサービスを共に創造するパートナーへと消費者観は一変したのである。

これら既存のマーケティング概念の劇的な変化を見ていると、同じことが、いずれ遠からず医療にも生起するだろうと思わずにはいられない。いや、医療においてこれら変化を積極的に起こさなければならないのだ。

患者を医療の共創パートナーにすること。

このことが必要なのだ。医療関連の製品とサービスの開発において、これからは「患者との共創」というスタイルが増えてくるだろう。私たちが開発した「患者のホンネを傾聴する患者体験データベース “dimensions”」も、このような文脈において意味と価値を持つものだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.