「闘病記」を越えて(5): ネット的なるもの

従来の「闘病記」という狭い閉じられた静的枠組みによってではなく、もっと開かれた動的な視点からネット上の闘病ドキュメントを見ていくことが必要だ。ここに二つの視線があると思う。ひとつはリアル闘病本を起点として、ネット上の闘病ドキュメントの方へ向けられた視線であり、もう一方はネット上の闘病ドキュメントから出発して、リアルの医療現場へ向いた視線である。前者はリアル闘病本およびリアル医療現場などを、ある意味で規範化し、「かくあるべし」という硬直した観点からネット上の闘病ドキュメント周辺を見ているはずだ。このような「視線」からこぼれ落ちてしまうのは、ネット上の闘病ドキュメントが持つ豊かな可能性である。リアル闘病本の研究者達が、ネット上の闘病ドキュメントを正当に評価できないのも、彼らがこの視線から離れることができないからだ。

一方、もう一つの視線は何を語っているのか。もう一つのネット上の闘病ドキュメント発の視線は、リアル闘病本だけではなく、リアル医療全体に向けられている。そして、この「視線」は「かくあるべし」という規範化された医療観ではなく、「こうあってほしい」もしくは「こんなことも可能だ」というように、複数の代替的医療像を提起しているはずなのだ。つまり、現実の医療を唯一絶対のものとして規範化するのではなく、むしろ闘病者視点で相対化し、新しい医療の在り方の可能性を暗黙的に指し示していると言える。おそらく医療改革とは、これらの多声的で暗黙的な言葉に耳を傾けるところから始められるべきなのだろう。 続きを読む

「闘病記」を越えて(4): データベース「患者の叡智」へ向けて

 wikinomics

本日で、TOBYO収録闘病サイトは710疾患、15000サイトを越えた。これまで闘病ユニバースの規模をおよそ3万サイトと推定してきたが、これでTOBYOはその半数近くを可視化し、分類整理したことになる。だがまだあと半数を残しており、さらに今後多くの新闘病サイトが出現するだろう。こんなところで満足しているわけにはいかない。以前のエントリで現時点におけるTOBYOのプロジェクトミッションを、次のように述べてある。

闘病ユニバースに存在するすべての闘病体験を可視化し、分類整理し、アクセスできるようにすること。

このミッションを遂行するために、今後もサイト収集を進めていくが、来年には「収録サイト数3万件」に到達する予定だ。これで日本の近代医療はじまって以来初の、そしておそらく世界でも初の「患者3万人規模、分類整理され全文検索可能な闘病体験集合」が姿を現すことになる。これを仮に「データベース『患者の叡智』」と呼んでおく。このデータベースは、まず第一に闘病者のために利用してもらいたいが、その他、医療改革、学術研究、製品開発、政策立案、教育、マーケティングなど、およそ医療に関するすべての社会的ニーズに応えられる可能性を持っている。 続きを読む

「闘病記」を越えて(3): 事実とレトリック

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数年前、起業して真っ先に私たちが取り組んだテーマは「医療評価」であった。医療機関を患者視点で評価し、レーティングデータをインターネットで公開しようと考えていたのだ。その患者視点評価の理論的フレームを固めようと、米国ピッカー研究所の患者体験調査手法に学び、従来の「患者満足度調査」にかわる新しい調査システムを開発する予定であった。「満足度」が主観的な指標であるのに対し、「体験」は「事実」の客観指標である。このときから「医療を患者体験(事実)で評価する」という方向性を私たちは目指したといえるだろう。

だが今にして思えば、あらためて新しい調査システムを開発して把握するまでもなく、患者体験は、患者自身の手によってウェブ上に多数公開され始めたのである。闘病サイト、およびそれによって形成された闘病ユニバースである。「患者は、医療機関で何を実際に体験したのか」について、評価調査をわざわざ実施するまでもなく、これら闘病サイトで公開された膨大な体験ドキュメント(闘病記)が、医療現場で実際に体験された「事実」を最も雄弁に語っているのである。つまりリサーチャーの目から見ると、これら体験ドキュメント(闘病記)は、医療評価データの「宝の山」なのである。 続きを読む

「闘病記」を越えて(2): 「分解-再編-総合」

「リアル闘病本」としてパッケージ化された「闘病記」と、現在ウェブ上に多数活動中の闘病サイトは、一見似ているようでまるで別モノである。その「違い」にこだわろうとするのか、それともその「違い」を無視しようとするのか。当然、どちらを取るかによって、闘病体験に関わるサービスの方向性はまるで違ったものになる。それを極論すれば、その違いを無視し、あえて従来の「闘病記」の延長線上で発想しようとするなら、何もウェブを使ってサービスを開発する必要はないはずだ。従来の出版サービスや図書館のようなもので十分だ。

つまり、リアルのアナロジーとして闘病サイトを見ている限り、基本的にどのような新しいユーザー価値も作ることはできない。同様にこのことは、患者体験のビデオパッケージにも言える。従来のビデオパッケージを単にウェブサイトで配信するだけなら、それは古くて懐かしい「オンデマンドVRS」と変わるところはない。だがこれは、今日のYouTubeなどとはまったく別モノと考えなければならないだろう。コミュニティについても同様である。従来のリアル「患者会」のようなものをウェブ上にあえて作る必要はないし、むしろ「患者会」の延長線上にウェブコミュニティを考えてはならないのだ。要するに「リアルをウェブ上に再現する」という誘惑を断固として退けなければ、どのような新しい医療サービスも作ることはできないのだ。 続きを読む

「闘病記」を越えて(1)

このブログでウェブ上の闘病記のことをあれこれ考察しているうちに、皮肉なことだが「闘病記」という呼称自体に対する当方の違和感は、だんだん大きくなってきている。だが、「闘病記」に代わる適切な呼称とて見つからず、他者にわかりやすく説明する必要もあって、依然としてこの呼称を用いなければならないのが実はもどかしい。

当方のその違和感を探ってみると、「リアル本の闘病記がまずあり、ウェブ闘病記はその代替物みたいなもの」などとリアル本の優越を主張するような、そんな従来の「研究者」たちの言説に対する反発みたいなところにたどり着くと思われる。昨年、「闘病記研究会」なるものに異論をぶつけたのも、実はそのような「反発」があってのことだった。
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