「生、病、死」の考察

キューブラー・ロス「死ぬ瞬間」

先週孫が生まれた。出産予定日は知らされていたものの、いざ出生の事実に面と向かってみると、そこにはある種「予想外の幸運に出くわした」みたいな感じがあった。無論、「歳を食ったなぁ」という感懐もある。そして、昨年末の母の死と合わせて考えると、この短期間に近しい人間の生と死の両端を体験することになったわけだ。

「人間の生と死」と言ったが、今ひとつのファクターとして「病」があるだろう。私達がTOBYOプロジェクトで採集している闘病ドキュメントとは、この「生、病、死」の記録に他ならない。その中でもプロジェクトでは「病」に焦点をあて、数百万ページのドキュメントから「病」に関する記述を抽出・集計・分析することを目指してきた。だが本来、「病」とは「生、死」との三点セットの相互関連として論じられるべきであり、それだけを単独であつかうことは不自然であるかもしれない。

また、この三点セットは往々にして「生、病」が前面に出され、「死」は後方へ退けられる傾向がある。特に「闘病」という言葉を使った場合、そこから強く喚起されるのは「生と病」である。「闘病」という言葉が、多分に積極的な行為を表すからだろう。対して「死」が積極的に焦点化されることはない。どうやら私達に共有された無意識には、「生、病」をポジティブに捉えたいという一種の強迫観念があり、逆に「死」を議論の余地のないネガティブ・ファクターとして無視したいという暗黙裡の合意があるような気がする。

だが「死」は存在する。患者のみならず万人の問題として存在する。最近気づいたのだが、闘病ドキュメントを考察する場合、私達はこれまで「死」をないがしろにしてきたのではなかったか。いわゆる「闘病記」を「生と病の感動の記録」みたいな視点で喧伝することを、私達はプロジェクトの最初から強く戒めてきた。物語として回収され消費されるものとしてではなく、事実として冷静に考察される素材として、私達は闘病ドキュメントを捉えようとしてきた。だが、それでも「死」という事実を、「生と病」の関連で捉えようとはしていなかった。そのような反省を持つに至ったのである。

人間の「生、病、死」を、通常、人々が一般的にどう受け止めているかといえば、おそらく「生→病→死」のような直線的な過程として受け止めているだろう。この場合「死」は「生」から「病」を経由した単なる帰結となる。帰結であるかぎりは、当の患者がそのことに言及し、そのことを語ることはできない。「どう生き、どう病と戦ったか」を本人が記録することはできるが、その帰結として「どう死んだか」を本人が記録することはできない。だが、重篤な病の闘病ドキュメントの場合、「死」の直前まで、なんらかのかたちで「死」について言及する記述は少なくない。

精神科医のキューブラー・ロスは200人の末期がん患者にインタービュー調査をおこない、その結果、患者の「死」の受容過程は次のような経過をたどるとした。

1.否認: 自分が死ぬということはウソではないのかと疑う段階

2.怒り: なぜ自分が死ななければならないのか、という怒りを周囲に向ける段階

3.取引: なんとか死なずにすむように取引をしよう、何かにすがろうと試みる段階

4.抑うつ: 何もできなくなる段階

5.受容: 最終的に自分が死ぬことを受け入れる段階

※「死ぬ瞬間―死とその過程について」(E.キューブラー・ロス、鈴木晶訳、中公文庫)

この「死の受容過程」を見ていると、たしかにこれら過程に該当するような記述は、末期がん患者の闘病ブログなどで目にすることが多い。だがこのような調査は、調査の性格上実施が難しく、日本における同様の調査結果報告は寡聞にして知らない。それでもすでにネット上には患者自身が書いた膨大な量のドキュメントが公開されており、これらを抽出・集計すれば、日本の患者が「死」に対してどう向き合っているか、その現状を知ることができるだろう。

数年前、ある高名な医師がその著書の中で「患者は死生観を持つべきだ」と記しているのに出くわした。このような「お説教」を患者に垂れる前に、まずこの医師は日本の患者がどんな死生観を持っているのか、あるいは持っていないのか、その現状を知るべきだ。宗教や倫理観の違いもあり、おそらく米国におけるロスの「死の受容過程」とは、また違った様相を呈しているはずだ。吉本隆明は、日本人は無意識のうちに仏教の習慣を広範囲に取り入れており、「死」に対しても無意識の対応をしているが、そのことの意識化はほとんどされていないと指摘している。(「新・死の位相学」Ⅱ-3「東洋と西洋の生死観」、春秋社)。この場合、死生観は無いのではなく無意識化しているのであり、そもそも「死生観を持て」みたいな説教をしてもはじまらない。

また、ふつう「生→病→死」という直線的な過程として理解されている「生、病、死」だが、ミシェル・フーコーなどは「死」を頂点とし、「生」と「病」を底辺とするような三角形として捉えている。(「臨床医学の誕生」、みすず書房)。この場合「死」とは、「生」と「病」のすべてを見通すことが出来て、それらを全的に批判できる場所である。このように「死」を思想的に位置づけようとする試みにおいても、日本はさしたる成果を持っていないのだ。

先にも述べたように、私達のTOBYOプロジェクトはネット上の闘病ドキュメントから患者の「生と病」を知ろうとしてきたが、「死」についてはこれまで注目していなかった。医療を考える際に極めて重要なポイントでありながら、患者が「死」にどう向き合い、どのような死生観を持っているかに焦点を合わせることもなかった。TOBYOプロジェクトはネット上に公開された膨大な患者生成データを抽出・集計・分析し、その結果を社会に伝えることを目指しているのだが、どのようにデータを焦点化していくかについては、まだまだ盲点があることに気づいた。だが、別の観点から見れば、ネット上の患者生成データの応用領域は、従来想定していたよりも相当広いということがわかってきた。キューブラー・ロスの患者調査のような実施がきわめて困難な調査研究についても、ネット上にすでに公開されている患者生成データを集めることによって可能となるだろう。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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