「コミュニティ・リサーチ」の考察

「現代社会の市民は、議論を始めるにあたって、議論の場そのものの共有を信じることができない。意見は異なっても、とりあえず同じ共同体の一員としてひとつの議論に参加している、という出発点の意識すら共有できない。アーレントとハーバーマスが理想とした公共圏はそもそも起動しない。」(「一般意思2.0」、東浩紀、P97)

「しかし、ネットの政治的な利用の本当の可能性は、無数の市民がそこで活発な議論をかわし、合意形成に至るといったハーバーマス的な理想にはなく、(いくども述べているようにどうせそんなものは成立するわけがないのだから)、むしろ、議論の過程で彼らがそこにほうりこんだ無数の文章について、発話者の意図から離れ集合的な分析を可能とするメタ内容的、記憶保持の性格にこそあると言うべきではないだろか。発話者は一般に、発話の内容については意識的に制御することができる。しかし、発話のメタ内容的な特徴、たとえば語彙の癖や文体のリズムや書く速度などは容易には制御できない。そしてネットは、まさにそのようなメタ内容的な情報の記録に適しているのだ。」(同上、P 127)

少し前に、あるマーケティング・リサーチ関係者から「TOBYOにはコミュニティはあるのか?」という質問を投げかけられたことがあった。このブログをかなり前からお読みになっている読者なら、おそらくこの「問い」に苦笑されるかもしれない。まさにこの「問い」こそは、TOBYO立ち上げ初期から幾度となく異口同音に私たちに繰り返し向けられてきた「問い」であり、そのことはしばしばこのブログでも触れてきている。実はもういい加減、辟易しているのだが。

そのうちにだんだんわかってきたことだが、どうやら世の中には「コミュニティ信仰」というものが広く根強く存在するらしい。何かコミュニティをやっていることが、論証抜きで非常に価値のある高度な試行であるかのような、そんな「信仰」があるような気がする。もっとも「信仰」が論証されることはないのだが・・・・。また、コミュニティがあたかも諸課題の万能特効薬ででもあるかのようなそんな「信仰」もあるような気がする。

これら「コミュニティ信仰」に通底するものは「コミュニティ成立」への疑念の欠如であり、すべてのコミュニティが例外なく「成立する」と何の根拠もなく楽天的に信じられている。だがコミュニティは不成立に終わることもあり、むしろ現実には不成立のケースのほうが多いのである。

ネットを見回してみると、一応「コミュニティ」という体裁はとってはいるものの、その実態はほとんどなんの活動もしていないコミュニティは数多い。表面上、会員数を誇ってはいるが、実際に活動しているメンバーはきわめて少数にとどまり、その実体はすでに死んでいるのだが、あたかも生きているかのように見せかけている「ゾンビ・コミュニティ」は多い。

いうまでもなく、コミュニティという体裁を作り上げることと、そのコミュニティが実際に「動く」ことはまったく別のことであり、本当にそのコミュニティが「動く」かどうかは、やってみないと誰にもわからないのだ。コミュニティは一種のギャンブルであり、その成否は「神のみぞ知る」であり、当然そこにはリスクもある。実際、サクラやインセンティブをフルに投入しても動かないコミュニティほど困ったものはない。このようなコミュニティの実相が、「コミュニティ信仰」からは抜け落ちているのだ。

最近、マーケティング・リサーチ業界ではMROCやコミュニティ・パネルなど、ネットを活用した新しい調査手法に注目が集まっている。昨年春ごろから、私たちもdimensionsの位置づけをめぐり試行錯誤する中で、これら新しいマーケティング・リサーチ手法の動向に関心を払ってきた。

だが、MROCなどを単に「コミュニティ・リサーチ」というふうに捉えるとすれば、それは従来のコミュニティが抱える限界というものを、やはり抱えざるをえないのではないか。つまり、まず「そのコミュニティは本当に動くのか?」という素朴な疑問に常に直面せざるをえないだろう。動かすための常套手段である「モデレータの介入、サクラによる誘導、インセンティブ投下」などは、しかし、コミュニティ内部のバイアスや同調圧力を高め、多様性予測定理(スコット・ペイジ)を減じる結果につながるだろう。あるいはレガシー・マーケティングの「コマンド&コントロール」の発想をまたぞろ持ち出さなければ、コミュニティ運営や調査業務を遂行できないということになり、まさに時代と逆行する。

だが、これらよりもっと深刻な問題がある。それは「コミュニティ」という「共通の場」に囲い込んだメンバーが、活発なコミュニケーションを通じて諸課題に新たな知見を創造するみたいな「熟議型問題解決モデル」を、はたしてどこまでナイーブに信じることができるかという問題だ。現在ネット上で起きている議論やコミュニケーションというものの性質が、従来想定されていたものとかなり違うものであることは、冒頭に引用した東氏のことばにあるとおりだと思う。

政治課題であれ新製品開発であれ、ネット上のコミュニティに集まった市民・消費者が、活発な熟議を通じて問題解決を図るというような「熟議型民主主義」や「熟議型マーケティング」というモデルは、現実には成立しないだろうし、現実には動かないだろう。また、これらナイーブな「コミュニティ信仰」の「視線」というものを考えてみると、それは現実の制度(例:政治、マーケティング、医療)からネットを見るという向きになっている。そうではなくネットから現実の諸制度を見るという、逆向きの視線でなければ、現実の諸制度を相対化し変革することはできないはずだ。

何度も何度も、繰り返して想起する必要があるはずだが、ネットの原理は「自律、分散、協調」である。このようなハイエク的なメカニズムは、「コミュニティ信仰」に基づく諸発想を常に裏切り続けていくだろう。だから、冒頭引用の後段にも述べられているが、熟議型問題解決やそれに伴う「態度変容モデル」ではなく、ネット上に分散して公開された言説をメタレベルで解読していくことだけが有効な戦略なのかもしれない。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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