「患者エンゲージメント」異聞

今年の春に「患者エンゲージメント」と題するエントリを書いた。この「患者エンゲージメント」という言葉が持っている今日的意味を少し整理しておこうという意図があってのことだった。だが、何か大事なことを書き忘れたのではないかと、釈然としない気持ちが書き終えたあとに残ったことを覚えている。

その後この「エンゲージメント」のことはすっかり忘れていたが、最近、米国の製薬マーケティング関連のブログ筋でメルクの消費者向けサイト「MerckEngage」 が話題になっており、あわせて「エンゲージメント」について論じられていることに気づいた。この「MerckEngage」では今月から会員ユーザーに対しメールで健康情報を提供し始めたのだが、どうもメール送付を希望しないユーザーにまでメールが届けられてしまい、しかも「メール受信拒否」のオプトアウト手順が複雑すぎると批判の声があがったのである。

昨年、従来サイトをリニューアルして新規オープンした時、「MerckEngage」に寄せられた反応は芳しいものではなかった。“Merck engage is not engagement at all”というブログエントリまであらわれたのである。サイトタイトルに「Engage」と明記されているのにサイト自体はまるでちがうと、その羊頭狗肉ぶりが批判されたわけだ。さらにこのブロガーは次のように主張している。

To me engagement is not a website with tools and information for patients.  Engagement = conversation.

(私にとってエンゲージメントとは、患者向けツールや情報があるウェブサイトのことではない。「エンゲージメント=会話」なのだ。)

おそらくメルクの担当者はこのエントリを見たのであろう。そして「エンゲージ」という文言を実体化すべく、まさに消費者との「会話」を生み出そうとして、今月からメールをユーザーに送付し始めたのだろう。ところがそのメールが一方的に送られたので、逆に不評を買ってしまったのである。

これら一連のエピソードが語っているのは、「エンゲージメント」という言葉をめぐる関係者間の理解の不一致だろう。なるほど「エンゲージメント=会話」という理解のもとでは、メルク・サイトは不十分な「エンゲージメント」しか実現出来ていないことになる。そんなことを考えているうちに、突然、春先に「何か大事なことを書き忘れたのでは」と釈然としなかったことがはっきりムクムクと想起された。

Engagementのフランス語読みは「アンガージュマン」。そしてこの「アンガージュマン」ということばに独特の強い哲学的意味をもたせたのはジャン・ポール・サルトルだった。
サルトルの「アンガージュマン」は一般的に「社会参加、政治参加」と訳されることが多いが、いずれにせよある政治・社会状況において自らの立場を主体的に決定し、積極的に状況に関与し参加していくという態度が人間に課せられているとサルトルは説いた。

かつて日本でも1960年代から1970年代前半に、主として学生たちの間でこの「アンガージュマン」という言葉は好むと好まざるとに関わらず広く人口に膾炙していたのである。しかし1980年のサルトルの死以来、ポストモダン思潮とクロスフェードするかのように、この言葉と実存主義は忘却の彼方へと去っていった。

春先に「患者エンゲージメント」という言葉の意味を考えたとき、この「アンガージュマン」の断片が記憶の片隅でチラチラ見え隠れしていたのだが、それでも明確なかたちをとって思い浮かべることはできなかった。やはり歳か。

では、患者エンゲージメントをサルトル的な意味合いで「患者アンガージュマン」と捉え直すとどうなるか。前述ブロガーは「エンゲージメント=会話」と言い切ったが、これよりもさらに強く能動的に「患者が医療に参加する」というイメージが出現する。患者は自らの病状に向き合い、情報を得て学習し、態度決定し、治療を選び、自らの医療に参加していく。これは言うは容易いが、実際に行うのはたいへんなことにちがいない。だが「医師が患者を救う。医師によって患者が救われる。」などという受動的で古典的な医療像はもう徐々に過去のものになりつつある。患者は自らを救うために医療に参加していくのだ。そのためのITであり、ウェブであり、ソーシャルメディアであり、集合知(Collective Intelligence)なのだ。

患者アンガージュマンの時代である。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


「患者エンゲージメント」異聞” への2件のコメント

  1. 三宅さん、面白いエントリーをありがとうございます。

    まあしかし、製薬会社自らがこの手のサイトを直運営しているのは、利用者側からするとやはり気持ち悪いですね。バイアスかかっていそうだし、自分の情報を何にどう使われるか、いくら説明したところで気持ち悪さは残ります。

    もっと思い切って、自社の薬剤を服薬している患者さんに絞って「対話」を図る方がずっとすっきりしているように思いますね。

    ちなみに、MessageLeafも、「エンゲージメント」を生み出すツールになって欲しいと思ってやっています。

  2. 鈴木さん
    コメントありがとうございます。

    >もっと思い切って、自社の薬剤を服薬している患者さんに絞って「対話」を
    >図る方がずっとすっきりしているように思いますね。

    そのとおりですね。ただ、メルクはやりかたが下手ですが、それでも患者とコミュニケーションをとろうと努力しているのは評価したいと思います。日本のある製薬メーカー担当者から直接、「患者とコミュニケーションしたくない」主旨の発言を聞かされたことがありますからね。

    MessageLeaf、ご活躍されてますね。なかなか時間が取れずに、まだ当ブログにはインストールできていませんがそのうち入れますよ。

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