「消極的な参加、無意識の言葉」が意味を持つ時代

will_2.0

今週からいよいよ社会全体が再起動したような、そんな空気が街に満ちている。今年あたりから、ウェブ医療サービスは新しい段階に突入するような予感がある。Health2.0という言葉が現れてすでに6年が経ち、そのバズワードとしての新奇性が耳に新鮮だった時期は去った。これからいよいよその真価が試されるのだ。しかし「2.0」という言い方も、もうとっくに賞味期限が過ぎたような気もする昨今だが、ここに今ひとつ強力な「2.0」が現れた。「一般意思2.0」である。

「本書の出発点は、近代の政治思想が抑圧し排除したルソーの「夢」が、情報技術の世界において思わぬかたちで回帰している、そのダイナミズムへの注目にある。その「欲望の回帰」を可視化することで、現代の起業家やエンジニアが目指しているものをきちんと思想史の文脈に位置づける、それが本書の執筆動機のひとつだ。」(「一般意思2.0」、東浩紀、講談社、P102)

この本を読みはじめた時、いろいろな想いが体の底から、文字通り急に吹き出してくるのを禁じえなかった。ゾクゾクしたのだ。読書でこんな体験をしたのも久しぶりのことである。ここ数年、私たちが暗中模索、まさに手探りで進めてきたTOBYOプロジェクト。そこで私たちが考えてきたこと、めざしてきたものを、「どうだ、これがその方向性だろう」とズバリ言い当てられてしまったような気がしたのだ。「現代の起業家やエンジニアが目指しているものをきちんと思想史の文脈に位置づける」とあるが、本当にそのとおりの成果が出されていると思う。

現代社会は、人々の意志や欲望を意識的なコミュニケーションなしで収集し体系化する、そのような機構を現実に整備しはじめていると言えないだろうか。(中略)だから、筆者はここからさき、そのデータの蓄積をこそ現代社会の「一般意志」だと捉えてみたいと思う。わたしたちの望みの集積は、わたしたち自身が話し合い探ることがなくても、すでにつねにネットワークの中に刻まれている --- わたしたちはそのような時代に生きている。一般意志とはデータベースのことだ、というのがこれからの議論の核になる主張である。(同上、P83)

私たちがTOBYOプロジェクトでやってきたことは、患者がネットに公開した体験をアグリゲートし、データベース化し、可視化することであった。上記の言葉にならえば、そのことは「患者の一般意思=患者体験データベース」を構築し、患者の一般意志を可視化すること、と言えるだろう。その際、一般意志とは、私たちがふつう「集合知」と呼んでいるものに近いだろう。そして集合知は、これまでコミュニティや掲示板でユーザー同士がディスカッションした結果現れるもの、というイメージで理解されることが多かった。「ユーザーの熟議の結果」こそが集合知であると思われてきたのではないだろうか。

それに対し当方は、漠然とした違和感を持っていた。「ブログのエントリ、ツイッターのツイートなどで独白されるような、互いに無関係な体験や感情の切片集合、あるいはこれらのデータ集積も集合知と言うべきだろう」となんとなく思っていたからである。

「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケーションも取らないのであれば、(略)小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮は常に良いものとなるであろう。」(ルソー、「社会契約論」、第二篇第三章)

たとえば、「政治はコミュニケーションと熟議の過程である」とか「集合知はコミュニケーションとディスカッションの結果である」との見方からすれば、上記のルソーの言葉は非常に奇妙に聞こえるはずだ。また、十分なコミュニケーションとディスカッションを経て合意形成に至るプロセスこそが民主主義の肝であるとの「常識」からしても、たしかに奇妙に聞こえるはずだ。だが、ルソーが民主主義の歴史の揺籃期に提出した言葉は上記のようなものであったのだ。にもかかわらず、そのことを後世の私たちは「非現実的だ」と、意味も吟味することなく決めつけ、忘却してしまった。そして、インターネットが世界中に浸透した今日、もう一度この言葉に回帰する時が来たと著者は言う。このルソーの言葉が、インターネットやデータベースなどによって現実味を帯びる時が来たのだ。これらの言葉の意味するところが、理念としてではなく、現実的な技術として実現可能になったからである。

ところで、Health2.0を説明するとき「参加型医療」という言葉を使うことがある。だが、この「参加」という言葉には、たとえば患者に積極的な行動や能動的な言動を強いるようなニュアンスがある。そしてそのように積極的かつ能動的な「参加」を実行できる人は、ごく一部の人に限られ、圧倒的多数の人にはそのように振舞うことは無理だろう。

だが、ルソーの言を思い起こすなら、患者会やシンポジウムなどの「活動」に積極的に関わることだけが医療参加ではないと言えるだろう。むしろブログやツイッターで自分の体験や想いを、誰に言うことなく、ひとりでそっとつぶやいてみるような「消極的な行動」も、立派な「医療参加」であると言えるだろう。

ネット上のあちこちに分散し、小さな声でそっと独白されるような消極的な言葉も、かならずアグリゲートしデータベースに集約することが可能であり、それら声を医療政策立案やシステム改善、さらに新製品や新サービスの開発へと直接フィードバックする技術もサービスもすでにあるのだ。現に、TOBYOとdimensionsはそのことをめざして作られたのだから。

そのように考えると、あらためてインターネットによって、政治や医療への従来の参加の仕方が根底的に変わる時代に、私たちは生きていることに思い至る。だがそのことは、たとえば直接投票による直接民主主義、あるいはネット上のコミュニケーション&ディスカッションによる熟議民主主義などに短絡するわけではない。むしろ消極的なかかわり方や、無意識的な言動が、「一般意思」として集約され機能する時代が来たのである。ルソーの新しい読解と、20世紀の公共性哲学(アーレント、ハーバーマス)への批判的検討を通じ、「一般意思2.0」は今日のネット社会の意味するところと、そこから生まれる「夢」を大胆に描き出している。この本は、私たちベンチャー起業家にとっての必読書である。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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