「団塊」から遠く離れて

ShakujiiKoen_2010summer

たしか二三年前までは内田樹氏のブログを読んでいたはずなのだが、いつしかまったく読まなくなってしまった。何か団塊の世代の世迷い言を聞かされているような、また中高年のふてぶてしい居直り言を聞かされているような気がして、だんだん読むことが不愉快になったからだ。

なんとなくこの内田樹という人は、「団塊の世代」のある種の部分を代表し代弁しているような気がする。村上春樹も団塊の世代のひとりであるが、最近のインタビューでは「団塊の世代の世代責任」という言い方で、この世代の「革命戦士-企業戦士-バブル戦士-逃げきり年金生活者」という生き方の「責任」を問うことが多い。このような同世代批判のリスクは小さくないはずだが、それをあえて言ってしまうところはさすがだ。70年代当時、大学を卒業すれば企業に就職するか大学院に進学するか、学生にとって選択肢はこの二つしかなかった。村上氏はどちらも選択せず、ジャズ喫茶のマスターという職を選んだのだ。

昨日の内田氏のエントリ「日本の人事システムについて」が各方面で話題になっている。これに対しメディカル・インサイトの鈴木さんが「内田樹教授にモノ申す」で鋭い批判を展開しているが、激しく同意する。鈴木さんの内田批判に全面的に賛成だ。この内田氏エントリは典型的な「団塊の世代のマインドセット」を代弁するものであり、学生に対する就職時の「査定、審査」の理不尽さを指弾するように見せて、結局は古い「戦後民主主義」への自分たちの郷愁を吐露しているようなものである。しかも理不尽なもの、不合理なことは、もちろん就職試験だけではなく「仕事」の全ての局面に存在する。

企業へ就職しようが、大学に残ろうが、はたまたジャズ喫茶の主になろうが、それは学生たちの自由に委ねられている。それを「問題は、(中略)(若者たちのボリュームゾーンを形成する部分)を日本社会が構造的に「潰している」という事実の方である。」などと大仰に言い張るのはどうか。このように「社会問題」をフレームアップするような感性が「団塊」的なのだ。

その前の医療を扱った内田氏エントリ「院内暴力とメディア」もお粗末なものであった。これではネット医師などが、この間撒き散らしてきた言説とほとんど変わらない。典型的なパターナリズムの医療観であり、伽藍的な布置さえ見せている。「患者は専門家でもないのに医療に口をはさむな」と言っているようなものではないか。

ここで内田氏は自らの医療観を語る際、宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書)を引いている。実は、当方もかつて宇沢弘文氏の言説に魅力を感じていた時期があった。だが、実際に『社会的共通資本』によって医療を検討してみると、空疎なきれいごとしか書かれておらず、なんら現実的なビジョンは示されていなかった。つまりここから出発しても、どこへも到達することはできないのだ。しかし、ここに書かれた宇沢弘文氏の言葉を引いての内田氏のメディア批判は、何か凄まじく貧相だ。論を成していない。酔っ払って書かれたのか?

かく言う私自身、広義の団塊の世代に属し、団塊のシッポみたいなところに位置する年代である。だから「忘却のチカラ」を借りて、自分を白紙状態にすべく、なるたけ団塊から遠くへ離れて行きたいものだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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