ロシア構成主義のまなざし

rodchenko

(左:「これよりよいおしゃぶりはない。年をとるまで吸いたくなる。」 1923年、ゴムトラスト広告ポスター、ロトチェンコ、マヤコフスキー、右:「あらゆる知についての書籍」1924年、レンギス広告ポスター、ロトチェンコ、マヤコフスキー)

寒い4月が終わると、今度は初夏の5月が始まった。極端な天候の行方に戸惑ってしまう。TOBYOプロジェクトもしばらく小休止し、久しぶりに休暇をたっぷり楽しんだ。とは言え、別段どこへ出かけるわけでもなく、ただ近隣を散歩し、自宅で本を読み、音楽を聞く時間を過ごしただけである。妻と映画館や美術館にも足を運んだが、たまたま見た「ロトチェンコ+ステパーノワ ロシア構成主義のまなざし」(東京都庭園美術館)がよかった。

20世紀初頭のロシア・アヴァンギャルド芸術の展覧会は、日本でも過去何回か大きなものが開かれたが、結局、一度も足を運ぶことはなかった。それはかつて「政治の革命と芸術の革命」などと学生時代に語っていたテーマを、再び直視することの気恥ずかしさのためではなかったか。私の卒論指導教官であり昨年亡くなったM先生は、日本のロシア・アヴァンギャルド芸術研究の中心的存在であり、学生の私たちはその周辺でさまざまにロシア文学やアヴァンギャルド芸術を語りあっていた。

だが、やがて「政治と芸術」という古典的な図式で物事を考えることに、私たちはどこかの時点で飽きてしまったと思う。「スターリン体制に圧殺されたアヴァンギャルド芸術」というドラマチックな図式にもだ。何故かと言えば、これらの図式は新しい世界観を何も生産することはなく、それ以降の歴史からも切断された重苦しいアポリア以外に存在のしようがないからだ。そこからどのような出口もなく、ただ滅入るような停滞があるのみだ。

しかし、このような図式や解釈とは無関係に作品自体は残る。では、このことをどう理解すればよいのだろうか。オランダの歴史家ホイジンガー「中世の秋」で、「あるひとつの時代は、その時代を生きた人々が全て死に絶えてはじめて客観的に理解することができる。だが同時に、その時代を支配した感情や空気などは、その時代を生きた人々とともに消え去ってしまう。」というような内容を語ったことがある。これはどの時代であれ、一つの時代を理解することの不可能性を語ったものと解することができるだろう。

今回、革命期、内戦期、そしてネップ期へ至る時代のロトチェンコの作品の前に立ってみると、これら作品の持つユーモアや快活さに気づくことの方が多かった。これは意外な発見であった。「政治と芸術」などというしかつめらしい図式や対比、あるいは時代背景で作品を解読するよりも、今の自分に共感できるものを作品から素直に受け取るべきだ。たとえ「時代」を理解することは不可能であっても、時間を超えた共感は可能かもしれない。

今回、特にロトチェンコのポスターを見ながら印象に残ったのは、マヤコフスキーの簡潔にして秀逸なコピーである。革命詩人としてではなく、コピーライターとしてマヤコフスキーを再評価しても良いのではないか。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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