入れ子構造のパターナリズム

matoryoshika

このブログを最初からざっと眺めてみると、当方の興味関心が「闘病記」から徐々に離れてきたことがお分かりいただけるだろう。というよりも、最初から「リアル「闘病記」本の代替物としてのウェブ闘病記」という見方に反撃するために、ウェブ上の闘病サイトの独自な立ち位置を強調していたわけだ。今日では、ブログをリアル日記帳の延長で捉える、あるいはその代替物と見るような人はいないだろう。同様に、ウェブ上に出現した闘病サイトを旧来の「闘病記」の延長で捉えてはならず、両者はほとんど別物であるとの認識を持つ必要があるだろう。

闘病サイトをじっと観察してみると、それが「闘病記」を書く場所ではなく、ネット上でさまざまな情報活動をするための基地という性格があることに気づくはずだ。闘病体験記録はその情報活動の一つの成果に過ぎず、それを闘病者の情報活動総体から分離することは本当はおかしなことだ。つまり、闘病者はいつのまにか自然発生的に、古く狭い「闘病記」というフレームに入りきらない情報活動とコミュニケーションをはじめているのであり、その現実を見ないことには何も始まらない。

そしてこのような闘病者の情報活動やコミュニケーション活動は、それらを「作品」として「鑑賞」するような観点とはまったく無縁であり、純粋に「自分にとって役立つ情報かどうか」によってのみ判断されている。つまり、闘病ユニバースに「作品と鑑賞」という尺度を持ち込むのは、まったくの時代錯誤なのだ。従って「作品」としての完成度ではなく、まったく別の尺度で闘病者の情報活動やコミュニケーション活動の成果は評価されるべきである。

「ユーチューブでもっとも人気のある動画でさえ、標準的なハリウッド映画の質には全く及ばない。解像度は低く、照明は下手で、音声も聞き取りにくく、話の筋など存在しない。しかし、そんなことは関係ない。なぜなら、もっとも重要なのは関連性だからだ。私たちが選ぶのはいつでも、自分が求めてもいない『質の高い』動画ではなく、『質が悪く』ても、求めている内容の動画なのだ。」
(「フリー」—第十三章「(ときには)ムダもいい」、クリス・アンダーソン、NHK出版)

「全く別の尺度」とはクリス・アンダーソンが言うところの「関連性」である。闘病者にとってそれはまず「自分の病気との関連性」のことだ。作品的完成度ではなく、自分の病気に関連するかどうかが重要であり、そのことは闘病者自身が判断することだ。しかし、その判断を「専門家の見地」から、闘病者に代わって提供しようとするお節介な連中もいるようだ。また、闘病とは無縁の健常者に、求めてもいない「闘病記」を「専門家」がいくら啓蒙してもムダである。世の中には読むべき本は多く、人生は短い。

「専門家」がいつも暗黙裡に示しているのは「何が最良かは私たちが知っている」というパターナリズム(父権主義)であり、彼らは「自分たちが知っている」以上、どうしてもそれを啓蒙したいという抑えがたい欲求を持っている。ひょっとすると医療と言う分野では、それがたとえ「闘病記」という中心から遠い周辺分野であっても、「専門家-パターナリズム-啓蒙」という一種の権力構造が、まるでマトリョーシカ人形のように、入れ子構造となって重層的に織り込まれているのかもしれない。

だが、今、ネット上で起きている闘病者の情報活動は、「専門家-パターナリズム-啓蒙」という図式をはみ出して、まったく新しい質を獲得しつつあるように見える。逆に「専門家-パターナリズム-啓蒙」に内属している限り、現在の医療が潜在的にかかえるある種のイデオロギーから自由にはなれないだろう。

マトリョーシカ人形の外へ出なければならないのだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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