書評:2011年新聞・テレビ消滅(佐々木俊尚、文春新書)

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まさに雪崩を打ってマスコミ崩壊は進行している。昨秋「次世代マーケティングプラットフォーム」(湯川鶴章著、ソフトバンククリエイティブ)の書評を書いた頃、この崩壊はすでに始まっていたのではあるが、そのことをあからさまに明言するには、誰しもまだ一抹の躊躇があったと思う。だがそれから半年以上経過した現在、最早、この崩壊を疑う者は誰一人としていないにちがいない。だからこの「2011年新聞・テレビ消滅」は従来の類書とは異なり、なんの躊躇も、遠慮も、控えめなインプリケーションもなく、ありのままの崩壊をただありのままに、可能性としてではなく「事実」として真正面から描いている。そのいささかの躊躇もない、勢いのある筆致に、まず爽やかさを感じたのである。そして、筆者も述べているが「マスコミが崩壊するかどうか」ではなく、「崩壊後、どうするか」こそがすでに問題になっているのだ。

春先、当方への毎日新聞記者の取材について、少々きついエントリを書いたことがあったが、他紙も含め、昨年来、当方が取材を受けた新聞記者の取材能力の劣化ぶりには驚くべきものがあった。まず、とにかくネットリテラシーが低すぎて、「この程度のネット理解で記事が書けるのか?」と何度も深く懸念せざるを得なかったし、さらに金を払ってその記事を読む読者のことを考えると、もう「悲惨」としか形容できないのであった。だが、これらマスメディア品質劣化の諸相をあげつらうにとどまらず、むしろ本書はビジネスモデル自体がどう考えても崩壊ストーリーに行きつくと主張している。この点の精緻な考察が、一般的なマスメディア慨嘆に終わらず、「マスメディア崩壊後の社会」へと読者の視線を誘うところに本書の価値があると思った。

だがマスメディアは崩壊しても、ジャーナリズムはなんとか救わなければならないだろう。かつて「第四の権力」と言われながら、徐々にその権威を失墜してきたジャーナリズムであるが、衰微著しいサラリーマン・ジャーナリズムとしてではなく、プロフェッショナルなフリーランスのジャーナリズムとして再生してほしいものだ。だが、古い「社会の木鐸」的な考えを突き抜けるような新機軸を打ち出さなければ、ジャーナリズムの再生は難しいのではないか。本書が指摘するように、ブログなどミドルメディアが伝統的な職業ジャーナリズムを侵食代替していく可能性も強い。あるいはブログなどが、新しいジャーナリズムのプラットフォームになる可能性だってある。特にミドルメディアの層が厚い英語圏ブロゴスフィアは、すでに伝統的ジャーナリズムを質と量の両面で追い越しているのではないかとさえ思われる。

実際、自分の情報収集活動をあらためて見まわしてみると、かつては日本や英語圏のニュースメディアにあるヘッドラインを巡回するようなことをやっていたわけだが、4-5年前から主要ブログサイトのニューエントリをフィードでアグリゲートする方法へ切り替えた。ジェネラリストの書いた記事よりも、専門家自身の書いたエントリの方が、早く、正確で、しかもくわしい情報が得られるからだ。だが、このことをもって、ジェネラリストのジャーナリストを直ちに否定することにはならないとも思う。

さて、最後になってしまったがテレビのビジネスモデルについて。「送出、編成、制作」という3つのレイヤーをアンバンドリングすべきだという議論は、すでに10年くらい前から存在していたはずだ。2002年ごろ情報通信系の学会に出席したことがあったが、ある研究セッションでこのことが論じられていたと記憶する。だがテレビ局側の出席者達は、これらアンバンドリング論に対し、その可能性をにべもなく否定していたのを思い出す。本書にもあるように、垂直統合モデルにいつまでこだわれるかを冷静に見つめ、早い段階で柔軟に「生き残る方策」を選択する道もあったはずだ。だが、状況がここまで切迫してくると、自分達が主体的に選択する余地はますます狭くなっている。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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