闘病記とPHR

あるテーマで週末から企画書を書いていた。その中で触発される形で、これまで考えてきたことを改めて点検したり、今後の方向性を想定してみたりしていたが、闘病記あるいは闘病ドキュメントについていくつかのポイントを確認できたように思う。

当初このブログは、闘病記とその価値をさまざまな観点から考察していたのだが、徐々にその中身は変わってきたと思う。特にストーリーや物語性という点で闘病ドキュメントを見ることから段々と離れて行き、「体験事実とデータ価値」という側面を重要視するようになってきた。人が「闘病記」に求めるものはさまざまである。だが、米国のPatientsLikeMeなどの影響もあるだろうが、「病気を治すデータ」という見方へと当方の闘病ドキュメント観は変わってきている。人は闘病記を書くために生まれてきたのではない。できれば闘病記を書かずに人生を送った方が幸せだろう。

病気を得て「すばらしい闘病記」を書いて他人を感動させるよりも、早く病気を治してしまった方が良いに決まっている。読むほうも「感動を得る」ことを望む人はいるだろうが、それよりも「病気を治すことに役立つかどうか」のほうが大事なはずだ。

そしてそのような闘病ドキュメントに対する視点移動があったとして、ではTOBYOというサービスはどのように変化すべきなのだろうか。そう考えてみると、どうやらそれは、たとえば事実とデータを中心としたPHRという方向に向うような気がする。あるいは特定疾患特化型のSNSかも知れない。闘病記作成機能を持つことだってあるだろう。いずれの方向選択であれ、それらが結局何を意味するかと言えば、これまでのように闘病ユニバース内の可視化インフラで自己完結することから、もう一歩外へ踏み出すことになるだろう。だが、「あれもこれも」と欲張れば、自分たちの拠って立つ原点を見失うことになる。ここが考えどころだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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