ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)

homo_ludens

最近、新聞を開くと「無趣味のすすめ」という本の広告をよく目にする。村上龍氏のエッセーをまとめたもので、そこそこ売れているようだ。広告には、その本から以下の文章が引用されており目を惹く。

現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。

二三年前、ある雑誌に掲載されたこの文章に接し、妙に感心したことがあった。だが、改めて広告でこの文章を今読むと、「そーかなぁ?」と素直に納得できない自分がいることに気がつく。そして同時に、歴史家ホイジンガの「ホモルーデンス」のことを思い出したのである。「ホモ・ルーデンス」とは「遊ぶ人」のことである。村上龍氏が「趣味」と対比的に取り出した「仕事する人」だけが人間のすべてではないだろう。人間は「仕事」をしてきたし、そこには村上氏が言うように「真の達成感や充実感」があっただろうが、一方で人間は「遊ぶ人」であり、無心に遊び続けてきたのだ。
「仕事」と「遊び」が対立するかと言えば、決してそうではないだろう。プロのスポーツ選手のように、本来「遊び」であるはずのゲームを「仕事」にする人もいる。また、私たちの普通の仕事の中にも「遊び」の要素はあり、しばしば「仕事」を「ゲームの一つ」と考えることもある。かつて広告会社に勤務していた時分、「遊び心を大切にしろ」と先輩から教えられたものだ。自由闊達な「遊び心」がなければ、人の本音に届く広告など作れやしないからだ。村上龍氏の「仕事」論は正論だ。だが、実はその「仕事」とは「遊び」の一部分であり、「遊び」の一つの発現形態に過ぎず、「遊ぶ人」こそが人間本来のあり様ではないのか。人間存在の基底にあるこの「遊ぶ」、しかも無心に「遊ぶ」というスタイルが、ある場面で「仕事」へ転化し、またある場面では「趣味」へと転化する。そんなことを考えてしまう。

ベンチャー事業というものも「正論」だけで支えられているような、そんなものではないだろう。そこには大いなる「遊び心」が必要なのだ。エスタブリッシュメントの「仕事」論をはぐらかし、相対化し、時には茶化し、笑い飛ばすような、そんなしたたかな「遊ぶ人」が必要なのだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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