闘病ユニバースとレガシー医療界

Enlightenment

かつてインターネットが登場したとき、その医療への活用がさまざまに論じられたのだが、その中からまず「啓蒙型医療情報サービス」というものが登場した。これは医療情報あるいは医学情報の専門性を過度に強調し、消費者をはじめ社会に「エビデンスに基づく正しい情報」を啓蒙するという基本発想に基づくものであった。同時に「正しさ」を証明するための「サイト認証」なども登場している。また、当時さんざん用いられた言葉に「情報の非対称性」という決まり文句もあった。これらは結局、医療情報についての専門家たる医療者だけを唯一絶対の「正しい情報源」とみなし、その他すべてを「疑わしいもの、いかがわしいもの」と排除するような硬直した情報観であった。かつて米国医師会(AMA)は患者に対し「インターネットの医療情報を見ないように」との声明を発したことがあったが、これも以上のような発想を根底に持つものである。そしてこのような医療情報観に立つ限り、医療者と消費者の関係は、極論すれば一方的な「命令-服従」関係にならざるをえない。情報の配信・受容という一連の関係が、リアルの諸関係を規定するからだ。「医師-患者」関係も例外ではない。

だが、レガシー医療界の目からすれば「疑わしさ、いかがわしさ」と見えるものが、実は硬直した「正しさ」を乗り越え、人々に自由な参加を促し、新しい知識や社会的価値を生み出す源泉なのである。つまり、AMAの発言にも明らかなように、もともとインターネットとレガシー医療界とは根本的に相容れないものだったのかもしれない。一方、闘病者たちは自発的にインターネットで自分の体験を語り始め、闘病の知識や情報をさまざまな形で共有し、集合知を分厚く蓄積し始め、闘病ユニバースが誕生する。

ある闘病記には次のように記されている。「なるほど医者は専門知識を持っている。それは認めよう。だが、この病気を実際に体験しているのは、この自分なのだ」と。インターネットを使い闘病者同士で情報を共有し始めた闘病者に、「情報の専門性」という特権をかざし、古い「命令-服従」関係を強いることはもはやできない。今日、情報とは特権の証ではなく、共有して実践的に使うものなのだ。

このようにインターネットは、まず闘病者の意識を変え、その活動領域を大幅に拡大したのである。プロシューマーならぬ「プロ闘病者」とでも呼ぶべき存在が、インターネットを通じて生み出されたのである。史上はじめて患者側の闘病体験が大規模にネット上に蓄積され、しかもすべて自由に共有できるようになったのだ。この闘病ユニバースの存在に象徴されるように、今日の闘病者はすでに従来の「服従者=患者」ではない。患者・闘病者は変わったのだ。だが、レガシー医療界の方はどうか。ほとんどまったく変化していないのではないだろうか。

今日の医療をめぐる「非対称性」とは、インターネットの集合知を活用するアクティブな闘病者と、いまだにレセプト電子化にさえ抵抗するような医療者との間にある。だから次なる課題は、この両者をどのように架橋すべきかにあるはずだ。そしてそれは、従来の「啓蒙」とはまったく逆の向きを持つことになるだろう。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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