或るエピキュリアン闘病者の呟き

闘病サイトをチェックしていると、時に寸鉄人を刺す鋭い言葉に出会うことがあり、思わず引き込まれて読みふけることも少なくない。最近、たまたま出くわした肺がん患者のサイトには、医師から癌告知を受けた直後に次のような言葉が記されていた。

平成19年1月9日実施のCTガイド下肺針生検にて確定診断(肺腺癌T1N2M0)に至る(1月10日)。

今後、自分を見失うことのないよう、以下の文章を綴る。

「ぶれるな」

人は自然現象の一部であり、
我々の喜怒哀楽や、あれこれと考えたりすることも、自然現象の一部である。
そうした人の行為によって築かれた文明なり文化なりもまた、
物質的には自然現象の一部でしかない。

人は、ときとしてそれを錯覚し、
あたかも自らがコントロールし得るものであると誤解する。
しかし、これは自然現象への意味づけに傾倒しすぎた故に生じた幻想にすぎない。
人間はえてして、自然の一部である自らの行為に何らかの意味をもたせようとする。
あくまでも自然の一部でしかないはずの、
自らの生命の意味を求めて幻想する。
最も大切なことは、本人が自然の一部である固体として、どれだけの心地良さ=快楽を得るか、ということである。

その快楽=心地良さというものは、
性欲や食欲といった極めて根源的な欲望を満たすことであったり、
自然の一部に対して意味を持たせた中から生じる充足感であったり、
苦痛を経ての達成感であったり、様々であろうが、 その全ては快楽としてひとくくりにして捉えることのできるものであり、
さして差異のあるものではない。

自然の一部として快楽を求め生きていく。

ぶれるな。       (「肺癌煩悩記」,markya3936氏)

闘病と言えば何かストイックなイメージが付きまとうが、エピキュリアン(快楽主義者)の闘病者という存在があってもよいではないか。そう思うのだが、実際、このように直截な「自然-快楽」肯定には初めてお目にかかった。

残念ながら、この闘病者は昨年1月に亡くなられた。それを予知してであろうが、死後の闘病サイトの扱いについて、次のような遺言を残しているのが注目される。「闘病記」というものが、闘病者自身にとってどのような性質のドキュメントであるかを改めて考えさせられた。(以下、原文のまま)

  • 出来る範囲で、永くこのブログをネット空間に漂わせ続けて欲しい
  • 出来る範囲で広く告知をして欲しく思います
  • ただし、自身が書いたものであることが身内には伏せて欲しい

三宅 啓  INITIATIVE INC.


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>